『神宮々司拝命記』と伊勢神宮

深沢秋男


   一、伊勢神宮宮司拝命

 伊勢神宮は、度会氏と荒木田氏が、神主の家柄として代々神に仕えてきた。しかし、明治維新と共に、この世襲制度は廃止された。
 明治四年五月十四日布達の、太政官令第二三四号(注1)は、その趣旨を次の如く伝えている。
 「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候処中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ神官家ノ輩中ニハ神世相伝由緒ノ向モ有之候ヘ共多クハ一時補任ノ社職其儘沿襲致シ或ハ領家地頭世変ニ因リ終ニ一社ノ執務致シ居リ其余村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲卜相成社入ヲ以テ家禄卜為シ一己ノ私有卜相心得候儀天下一般ノ積習ニテ神官ハ自然士民ノ別種卜相成祭政一致ノ御政体ニ相悖リ其弊害不尠候ニ付今般御改正被為在伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨被 仰出候事」
 また、当日付の第二三五号では、職員として、
「○神宮
  祭主      相当正三位 一員  掌統領祭祀総判宮事
  大宮司     相当正五位 一員  掌申詞知祭祀判庶務
  少宮司     相当正六位 一員  掌同大宮司
  皇太神宮禰宜  相当正七位 五員
  豊受太神宮禰宜 相当従七位 五員  掌奉仕神殿修祀事検庶務
  雨宮権禰宜   相当正八位 各五員 掌同禰宜
  同上主典    相当従八位 各八員 掌助事修庶務
  同上権主典   相当正九位 各八員 掌同主典
  宮掌      相当従九位 掌雑役          」
このように改組している。さらに、明治十年十二月八日付の太政官達、第九十一号では、
「神宮並官国幣社神官ヲ廃シ更ニ祭主以下職員官等月俸左ノ通被定候条此旨相達候事
    神宮
  祭主    壱員    三等  八拾円
  宮司    壱員    六等  三拾円
  禰宜    五員    九等  拾五円
  主典   弐拾員   十三等   八円
  宮掌   三拾員   十六等   七円
 と、組織を改め、俸給を決めている。

 鹿島神宮、宮司家の第六十七代・鹿島則文が、伊勢神宮の宮司を拝命したのは、明治十七年、四十六歳の事であった。
 鹿島則孝の編著『神宮々司拝命記』は、明治十七年三月十七日付、内務省社寺局の諌早生二・井上真優から鹿島則文宛の、伊勢神宮宮司就任要請の書簡の記録から始まっているが、この書留至急便は、三月二十日午後七時鹿島に着いた。ここから、則文の伊勢神宮宮司への道は始まった訳である。
 書簡の文面は、この度、神宮の宮司を採用することになったが、その人材に乏しく、貴兄(則文)以外に適任者はいないという事になった。神宮の跡役は暫くの間、権宮司の藤岡好古に担当させているので、神宮宮司就任の件、至急検討して欲しい、というものであった。
 この時、則文は東京へ出ていたので、父の則孝は至急便でもあるので開封し、内容確認のうえ、これを則文へ転送した。則文は、二十三日、井上真優を訪ねて事の詳細を問うている。井上によると、田中頼庸が宮司を辞職して以来、後は藤岡好古権宮司がその役に当たっているが、どうも評判が芳しくないので、宮司の人選を進めているところであるとのこと。
 田中頼庸は、明治七年、神宮大宮司に任じ、十年に官制改革によって神宮宮司となっているが、十五年に神道神宮教管長に就任、同時に神宮宮司を辞した。伊勢神宮の諸記録によると、十四年十二月七日付の書類には「神宮祭主朝彦親王代理/神宮宮司 田中頼庸」とあるが、十五年以後は、神宮禰宜中田正朔や権宮司藤岡好古が代わって署名している。
 このような事情があり、田中頼庸の後任として、則文に白羽の矢が立ったという事であろう。
 則文は、二十五日に、内務省社寺局長・丸岡誓爾の六番町の自宅へ呼ばれ、鹿島神宮の宮司の後任の件も含めて、さらに詳しい打合せをして、これを父の則孝に報告しているが、その中で、藤岡好古が権宮司に就任するにあたって、桜井局長へ五百円の賄賂を贈っているが、私の場合、先方から話があったのだから、全くその必要はない、と記している。当時の神社界の一面を知る事ができる。
 このような経緯の後、鹿島則文は、明治十七年四月二日付で、太政大臣三条実美より、神宮宮司を任命された。


 五月六日、横浜より三菱の汽船・東海丸で出発、七日午後二時、四日市着、白木屋に一泊。八日は陸路を、白子、津、松阪、新茶屋と進み、午後六時に伊勢に到着。九日より、神宮宮司としての仕事が始まっている。
 『神宮々司拝命記』五月二十六日の条に、
 「廿六日、出庁、コレヨリ先、祭主宮司職制十九日付ヲ以テ達セラレ、局長へ郵便廿二日夜届ク、兼テ内話アリテ待処、廿四日不在中司庁へ達ス、廿五日、日曜ニ付、本日各課へ通達上申ナシ、本日庁務ノ決判ヲナス首メナリ、コレ迄ハ祭主ノ代理ニ非ル故、上申下達ハ勿論、庶事内検ハナセトモ決判ハ代理ノ東禰宜ノミナリ、局長出庁ノ上、各課へ諭達アリ」
と記し、祭主と宮司のみを掲げ、以下省略されているが、明治十七年五月十九日の内務省達に、次の如くある。
「今般神宮職制別紙之通被定候条相達候事
 (別紙)
 神宮職制
 祭主    一員
  大御手代トシテ祭祀ニ奉仕シ祭事ヲ総判スル事ヲ掌ル
 宮司
  祭祀ニ奉仕シ諄辞ヲ奏読シ及庁務ヲ総判スル事ヲ掌ル
 権宮司
  掌宮司ニ准ス
 禰宜
  御前二祗候シ神膳ヲ供撒シ殿内一切ヲ管シ臨時祈祷祓除ヲ為シ及庁務ヲ処弁スル事ヲ掌ル宮司欠席スル時ハ上席ノ禰宜代理タル事ヲ得
 主典
  神饌ヲ調理シ大麻暦ヲ製造シ及庁中各課ノ事務ニ従事スル事ヲ掌ル
 宮掌
  雑務ニ従事スル事掌ル                    」
 父・則孝は、代々伝えられた家の宝物(三代将軍の掛け物等)を親戚の筑紫重門に預け、七月二十日に鹿島を出発。二十五日、横浜より蓬莱丸で伊勢へ向かっている。
 則文は、最初、三、四年という話で、伊勢神宮の宮司を引き受けたが、明治三十一年五月、内宮炎上という不祥事が発生、その責を負って職を辞するまで、十五年間の長きに亙ってこの要職を勤める事になる。この『神宮々司拝命記』は、その就任の経緯・経過を記録したもので、様々の点で興味深い内容をもっているが、それは本文を参照して頂き、以下に、則文在任中の事績の一、二を簡略にまとめておきたい。

   二、式年遷宮(明治二十二年、第五十六回)

 則文が宮司就任後、五年目の明治二十二年に、伊勢神宮の大行事、第五十六回式年遷宮が行われた。戦前の式年遷宮に関しては、胡麻鶴醇之氏の調査(注2)に詳しいが、明治二十二年度の概略は以下の如くである。
 明治二十二年の式年遷宮の準備は、それより十四年前の明治八年から開始されていて、様々な手続きは、田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治十五年四月、新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は、信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は、十九年三月五日に行われた。
 「甲第三号
  鎮地祭日時上申
  皇大神宮豊受大神宮御造替鎮地祭ノ儀、明治二年度ハ同年正月廿二日執行相成候、然ルニ今度ハ御地形御築立可相成ニ付、遷宮ノ当年ニテハ御不都合ニ候ハ、寛正三年遷宮ノ節四ケ年前長禄三年鎮地祭執行ノ例ニ拠リ、明治十九年三月五日トシ、時間ハ明治二年度ニ準拠シ、皇大神宮ハ卯刻ニ付午前八時、豊受大神宮ハ午刻ニ付正午十二時ニ執行仕度、別宮ハ漸次ヲ以御治定相成度、祭式ハ山口木本木造三祭ノ如ク旧式ニ拠リ取調次第書并日時付相添此段上申候也
    明治十九年一月八日
                           神宮宮司 鹿島則文
  内務大臣 伯爵 山形 有朋殿                    」
                       (明治己丑/遷宮公文類纂十一)

 仮御樋代木伐採式は二十年十一月九日に実施され、準備は着々と進行した。式年遷宮の節、儀杖兵は、陸軍歩兵大佐・渡部進以下総員百七十八名が派遣された。また、神楽並びに秘曲が初めて奉納されたが、以後、これが踏襲されている。
 「伏テ惟ミルニ神宮ハ 天祖 神霊ノ在ス所、皇統ノ基ユル所、是以 列聖尊奉敢テ怠リ玉フ事ナシ、中世以降古典旧儀ノ燦然ルヘキ者赫々相廃止シテ復タ拾収スヘカラス、王政維新首トシテ旧典ヲ回復セラレ綱挙リ目張ル、尋テ式年 御遷宮ノ如キ古ヲ稽へ今ヲ照シ一時衰廃セシ典儀今ハ則チ炳然世ニ明ナルヲ得タリ、洵ニ国家経綸ノ一大美事卜謂フヘキナリ、神霊感格シテ 宝祚ヲ冥護シ玉フ疑フ所ナシ、然リト雖トモ独り遷宮ノ際神楽ノ式ナキ豈 昭代ノ一大欠典ニアラスヤ、古語拾遺ニ曰ク、磯城瑞垣朝漸畏神威、同殿不安、仍就於倭笠縫邑殊立磯城神籬奉遷天照大神及草薙剣令皇女豊鍬入姫命奉斎焉其遷祭之夕人皆参終夜宴楽歌曰、ミヤヒトノオホヨスカラ爾イサトホシユキノヨロシモオホヨスカラ爾、又延喜大神宮式ニ斎宮女孺四人供五節舞云々、又同式ニ凡三節祭并解斎直会之日鳥子名舞童男童女十八人装束青摺衣装在前摺備臨祭給之云云、又百錬抄ニ曰ク、仁治三年五月十日丙申将軍家被行大神宮臨時祭舞人装束已下移鞍等被調下云云、ト是ニ因テ之ヲ観レハ上世 神宮ニ於テ神楽ヲ奏スルコト燎焉タリ、仰キ願クハ 朝廷御尊崇ノ厚キト旧儀復古ノ御主意トニヨリ、之ヲ 上聞ニ達シ 奉幣ノ夜御神楽大曲御執行アラン事ヲ神意ヲ奉慰シ国家ノ静謐ヲ祈請スルハ神官ノ職ナリ、是以敢テ叨リニ請フ所アリ、尊厳ヲ冒涜シ戦兢ノ至リニ任へス、則文誠惶誠恐頓首再拝
   明治二十二年三月二日
                      神宮宮司 正六位 鹿島 則文
   内務大臣 従二位勲一等 伯爵 松方 正義殿
                     閣 下             」
「庚第二四号
神楽執行之儀ニ付建言相成候処、右者既ニ客月十五日神楽并大曲被為行旨披仰出宮内大臣ヨリ式部長官ヘ達相成候趣ニ依リ、其旨貴庁ヘ達相成候儀ニ付、該建言書ハ其儘留置、為御心得此段申進候也
  明治廿二年三月十四日                 内務書記官
   神宮宮司 鹿島 則文殿                   」
 鎮地祭、仮御樋代木伐採式、立柱祭、御形祭、上棟祭、檐付祭、甍祭、御戸祭、御船代祭、洗清、心御柱奉建、杵築祭、後鎮祭、御装束神宝読合、川原大祓、御飾、遷御、奉幣、古物渡、御神楽御饌、御神楽と、この大祭を則文は、その最高責任者として、滞りなく実行した。
 次に掲げるのは、その折配布された遷宮諸祭日時表である。

     明治二十二年
    神宮式年御遷宮始諸祭日時
             十三所別官ハ略ス    (非売品) 神宮司庁
皇大神宮
  立柱祭  三月十一日午前八時
  御形祭  三月十一日午後二時
  上棟祭  三月廿六日午前十時
  檐付祭  四月廿四日午前十時
  甍 祭  八月廿一日午前八時
  御戸祭  九月十三日午前十時
  御船代祭 九月十七日午前八時
  洗 清  九月廿四日午前八時
  心御柱奉建九月廿五日午前八時
  杵築祭  九月廿八日午前八時
  後鎮祭  十月一日午前八時
  御装束神宝読合 十月一日午前十時
  川原大祓 十月一日午後四時
  御 餝  十月二日午前八時
  遷 御  十月二日午後八時
  遷御儲日 十月四日
  奉 幣  遷御翌日午前八時
  古物渡  十月三日午後二時
豊受大神宮
  立柱祭  三月十三日正午十二時
  御形祭  三月十三日午後四時
  上棟祭  三月廿八日正午十二時
  檐付祭  四月廿六日午前十時
  甍 祭  八月廿三日正午十二時
  御戸祭  九月十五日午前十時
  御船代祭 九月十九日午前十時
  洗 清  九月廿六日午前八時
  心御柱奉建九月廿七日午前八時
  杵築祭  九月廿九日午前十時
  後鎮祭  十月四日午前八時
  御装束神宝読合 十月四日午前十時
  川原大祓 十月四日午後四時
  御 餝  十月五日午前八時
  遷 御  十月五日午後八時
  遷御儲日 十月七日
  奉 幣  遷御翌日午前八時
  古物渡  十月六日午後二時

明治二十二年遷宮諸祭日時表(神宮文庫蔵)

 

   三、神宮皇学館の開校

 神宮皇学館と鹿島則文の関係については、私もかつて纏めた事がある(注3)が、その後、高原美忠氏の詳細な調査(注4)が発表されている。今は、この高原氏の御調査に主として拠りながら、簡略に紹介したいと思う。
 明治十五年四月三十日、神宮祭主・朝彦親王は、神宮職員に対して、皇学館設置に関する令達を発した。
 「神宮祭主朝彦親王令達
  今般林崎文庫ニ皇学館設置候条、此旨相達候事/但組織学規等ハ追而相達可申事」
                 (明治十五年四月三十日 神宮皇学館史料上)
 この令達を受けて、藤岡好古権宮司等がその実現に努力したが、未だ開校に至らず三年間が過ぎた。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ、その後を受けて宮司に就任した則文は、祭主宮の台命を奉じ、この開校に着手した。
 則文について、高原氏は次の如く記しておられる。
 「十七年四月来任の鹿島宮司は鹿島神宮大宮司鹿島則孝の子で、多くの勤王志士を寄宿させ、郷党の師弟を集めて皇道宣揚につくし、幕府の忌むところとなって八丈島に流されたのが廿二才の時であった。「任を罷めるの日、事後資を載せず、唯々蔵書三万余」と云ふ有名な句を残した好学の人であり、皇学館の興隆に力をつくした。」
 明治十八年一月、学制を定め、教授・教授補・助教・授読等の職員を置き、広く学生を募り、同月十一日、宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員五十名、神宮祀官の人材養成を目的として開校したが、学生は思うほど集まらなかった。
 明治二十年三月、則文は神宮宮掌の人々にあてて、次の如き勧学諭告文を送っている。
 「今般宮掌雇学術研究スルノ所、僅カニ五六名ニ過ギズ。然ラバ其ノ余ハ無学ノ人卜言ハザルヲ得ズ。是迄再三研究ノ義、訓諭ニ及ブモ、曰ク老年ノ読書ハ難シ、曰ク庁務ヲ専ラト心得学問ハ怠レリト。是大ナル謬見也。読書ハ他ノ技卜違ヒ、老年ニテモ一日研究スル一日ノ益アリ。又庁務ヲ口実トスルハ、神宮ノ何タルヲ知ラズト云フベシ。賽銭ノ勘定、文書ノ往復、神饌ノ買入レ、奉仕ノ分課ナドハ神官本務ヨリ生ズル末事也。譬バ農商ニモセヨ金銭ノ出納、味噌薪ノ買入レ、書状ノ遣取ハ一家ノ本務トハセズ。抑々今日ノ学問ハ実地ノ事業、則チ宇内ノ形勢古今ノ治乱ニ通暁シ、事物ノ理ヲ精査研究脳裏ニ含蓄シ、発シテ日用俗務万般ニ作用スルモノニシテ、彼ノ詩歌風雅ヲ玩ビ、字ヲ識リ事ニ博ク所謂本箱学問ノ比ニシテ、世事ニ迂遠俗務ニ達セズ昔日ノ学問ニハアラズ。俗務学問決シテ二途ニハ非ザルナリ。然リ。而シテ神官ノ本務タル神冥ニ奉仕スルヤ、誠意真心ヲ以テ神慮ヲ感格スルヲ主トス。徒ラニ外貌ノ礼容虚飾ヲ指スモノニアラズ。其ノ誠実簾恥ヲ興起確守スルハ学問ノ培養ニ基ク故ニ、神官ノ本務学問ヲ舎テ他ニ執ル所ナシ。今ヤ天下ノ風潮、博学有為ノ神官スラ度外無用視セラル。況ヤ碌々タル鄙陋寡聞ノ神官ニシテ世間ニ信任ヲ得ルハ、豈難カラズヤ。本月十一日ノ官報ニ神官ハ壱万六千余円ノ経費ヲ増額セラレ、去ル十一月ニハ官等一階昇級アリ。是ニ反シテ十七八日ノ官報ニ各社ノ神官ハ廃セラレ無給ノ神職トナレリ。各社ノ神官悉ク不学無術無用ノ人ニシテ、独リ神宮ノ神官有用ノ人材トモ云難シ。他ナシ偏ヘニ奉仕ノ大神宮ノ恩徳ノ然ラシムルヨリ興廃地ヲ異ニセリ。嗚呼、本宮ノ神官内ニハ妻子飢餓ノ顧ナク、外ニハ奏判任ノ官ヲ辱スル栄ヲ思惟スレバ、一日片時神恩神徳ヲ軽忽スルヲ得ンヤ。肝ニ銘ジ骨ニ刻ミ、其ノ涯リナキ恩徳ニ報ゼントナラバ、世ニ無用視セラレズ、学ヲ修メ行ヲ慎ミ、誠意真心天下ヲシテ神宮ノ神官ハ特別ナル故ニ朝廷ノ待遇モ又非常ナリ、ト言ハレルヨリ外ノ義ナシ。唇亡テ歯寒シ。各社神官ノ廃ハ前車ノ覆轍ナリ。加之官吏試験法不日ニ発布セラル、卜云フ。其ノ時ニ臨ミ臍ヲ屡ノ悔ナカラン。事ヲ屡スレバ疎ゼラルト古人ノ言アリ。従来学事ニ付再三訓諭其ノ効ナキモ、則文老婆心ノアマリ不得止更ニ忠告ニ及べり。篤卜熟慮反省シテ、過日来令セズシテ洋服ニ改装ナリシ如ク、翻然子弟ヲ督責シテ皇学館ニ入レ、自己モ一層勉励神官ノ神官タル本務ヲ尽サレン事ヲ希望ス。言ハ意ヲ尽サズ。論アラバ面議セラレヨ。
各自各字ノ下二可否ヲ記シテ返戻アリタシ。
 明治廿年三月廿二日                 宮司 鹿島則文」

 則文は、着々と学制の充実を図り、この四月大改革を行った。館長に中田正朔、幹事に孫福弘坦、教頭に東貞吉、副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し、科を尋常科と高等科に分け、修業年限を各四か年、定員百名とした。その後、明治二十三年五月には第一回目の卒業生二名を出し、二十七年には、祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ、則文自身館長の要職を兼ねて、その充実・発展に努力を重ねた。明治二十八年六月一日、則文は皇学館の官立化を計り、「神宮皇学館之儀ハ、去明治十六年五月中、御省ヘ伺済之上、設置、専ラ補典及国史・国文ヲ教授罷在候処、爾来、漸次隆盛ニ立至リ候ニ付、…一層規模ヲ拡張シ、御省所管ノ官立学校ニ被成下度…」と内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され、神宮皇館官制が勅令をもって公布されたのは、則文が伊勢を去って五年後、他界して二年後の明治三十六年八月のことである。神宮皇学館の館長は、初代中田正朔、二代鹿島則文、三代冷泉為紀、四代桑原芳樹、五代木野戸勝隆、六代武田千代三郎、七代松浦寅三郎、八代上田万年、九代森田実、十代平田貫一、十一代山田孝雄……と錚々たる人々がその任にあたり、学問発展のために尽くしてこられたが、則文はその礎を築いたと言っても、決して過言ではない。

   四、古事類苑の編纂刊行

 『古事類苑』は、本文一千巻、洋装本五十一冊(和装本三五〇冊)、日本最大の百科事彙である。明治十二年、西村茂樹の建議に基づいて文部省が小中村清矩を主任として編纂に着手、その後、東京学士会院、皇典講究所、最後に神宮司庁に移管されて、大正三年、三十五年の歳月を費やして完成した。編修には、川田剛、細川潤次郎、佐藤誠実、松本愛重、黒川真頼、本居豊穎、木村正辞、井上頼国等をはじめ多数の人々が携わった。明治二十八年、皇典講究所は契約の期限になったが、完成することが出来ず、「文部省ガ国家文運ノ為ニ計画シタル此一大事業モ、或ハ蹉跌セントスルノ状況」(注5)に至った。この時、社寺局長・阿部浩は神宮宮司の則文に議り、これを完成させようとした。則文は意を決し、その許可を内務大臣に申請した。
 「秘甲第一〇号
世界孰ノ邦モ、文運ノ開クルニ従ヒ、類聚書ノ必須ナルハ自然ノ勢ニシテ、漢洋共ニ其ノ書ニ乏シカラズ、然ルニ吾邦ニ於テハ、文運夙ニ開ケタルモ、未類聚書ノ完全ナルモノアラズ、是豈盛世ノ一大闕典ナラズヤ、文部省曩ニ此ニ見ル所アリテ、古事類苑編纂ノ挙アリ、然レドモ其事未ダ成ルニ及バズシテ、予メ完成ノ期ヲ定メ、之ヲ皇典講究所ニ委託セリ、皇典講究所、又孜孜編纂ニ従事シタルモ、未完成ニ至ラズシテ、既ニ約スル所ノ年期ニ達セリ、豈又遺憾ノ至ナラズヤ、故ニ今之ヲ同所ニ謀リ、文部省ニ稟請シテ、神宮司庁、編纂ノ責務ヲ負ヒ、五ケ年ヲ期シテ完成セシメントス、仰ギ願クハ神宮司庁ニ於テ、該編纂ニ従事スベキ件、併セテ向フ五ケ年間、累積スベキ社入金非常予備金ヲ以テ、之ガ費用ニ充ツルコトヲ、御許可アランコトヲ、抑遠近子来ノ崇敬者、奉献スル所ノ金ヲ以テ、コノ国家無前ノ大業ヲ成シ、大ニ文運ノ開進ヲ裨補スルコトアラバ、幸ニ
天覆ノ
神徳ヲ、偏ク衆庶ニ蒙ラシムルノ一端卜相成、天祖愛民ノ御盛意ニモ協ヒ候儀ニ存候ニ付、前件御許可ノ程奉願候也、
   明治二十八年二月十二日              神宮宮司 鹿島則文
     内務大臣子爵野村靖殿                     」
 この申請は、三月二十九日付で許可され、神宮司庁は、文部省及び東京学士会院作成の原稿二三四巻と皇典講究所作成の原稿四〇七巻、合計六四一巻を受領し、『古事類苑』編纂の事業を引き継いだ。明治二十九年十一月八日、第一冊目帝王部第二十七巻を刊行、則文は明治三十一年職を辞し帰郷したが、この大事業は、冷泉為紀、三室戸和光、岡部譲、桑原芳樹、木野戸勝隆等によって続けられ、大正三年完結した。

 

注1 太政官令・太政官布告・太政官達等は『法令全集』に拠った。
注2 胡麻鶴醇之氏「戦前三代の式年遷宮」(『神宮・明治百年史・上巻』昭和62年9月1日、神宮司庁発行)。
注3 拙稿「鹿島則文と桜山文庫」(『井関隆子日記・中巻』昭和55年8月20日、勉誠社発行)。
注4 高原美忠氏「神宮の文化事業・神宮皇学館」(『神宮・明治百年史・下巻』昭和63年10月20日、神宮司庁発行)。
注5 『古事類苑編纂事歴』

 

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