『桜斎随筆』の内容

 『桜斎随筆』の記述内容に関しては、前項で掲げた総目録によって、その大概は予想し得るものと思うが、ここでは、さらに、その具体的な内容を少し紹介しておきたいと思う。
 『桜斎随筆』の編著者・鹿島則孝は、この六十冊という大部な随筆を書き綴った動機・目的について、第一冊目の冒頭に付した「はしがき」で次の如く述べている。(則孝の文章の中には、仮名書きが多いものがある。引用に当たって、一部漢字に改め、濁点、句読点を補ったものがあることを断っておく。)

「はしがき
むかし、吉田の里に、なにがしの、日暮し硯に向ひにし、そのふることに、倣ふとしもは、あらねども、雪のあした、雨の夕べの、つれ/゛\なるまゝに、幼きころ、人に聞得たること、まのあたり、見たりしこと、はた、いにし世の文、今の世の新聞誌などより、世に珍しく思ふは、こと/゛\に書記したりしを、年経つまゝに、はや幾巻にかなりぬ。さばれ、人に示さむとの、ためにもあらねば、つぎ/゛\も、みだりがましけれど、書改めむも、さて、ものうくて、もとのまゝに、なしおきつ。また、東の都のことは、しも己れ生立し所なれば、幕府の様よりはじめて、こと/゛\に、落なく書記しぬ。あはれ、己が家の、ながれ、くみなむ人達の、見ぬ世を偲ぶ、よすがともならば、老が身の幸ひにこそ。
          桜花のかをるまどのもとに
                        七十五叟
  明治二十年四月十五日                 鹿島則孝誌 」

 これは、吉田兼好の『徒然草』を真似した訳ではないが、つれづれなるままに書き綴ったものであるという。幼い頃、人に聞いた事、実際、自分自身で見聞きした事、また、古い記録や現在の新聞・雑誌から、珍しい事は、ことごとに書き記したが、年を経るに従って六十冊にもなった。江戸は自分の生まれ育った所でもあるので、幕府の様子をはじめ、これも、それぞれに書きとどめた。鹿島家の子孫の人々が、実際見る事の出来ない昔を、思い偲ぶたよりともなれば、七十五歳の老人にとっても幸いである、といっている。
 この「はしがき」に続けて、桜山の地について次の如く記している。

「己れ、幼きころより、桜をめづる癖なむありけり。されば、いかで土地ひろらかに、桜おほきすまゐを、もとめばやと、あけくれに、思ひ居りしに、はからずも、鹿島に下ることとはなりぬ。さても、此屋敷は、むかし、佐竹氏の砦にてありしを、遠つ祖の、則興の君の、慶長元年三月の二日といふに、海辺の里より、この桜山の地に移られたり、と古き書に見えたり。されば其頃より、桜山の称ありにしを思へば、猶むかしより、桜のあまたありしならむ。今も、そのなごりとしもみゆる、桜のおほく残れり。それのみにはあらで、土地もいとひろらかにて、五千三百坪あまりぞありける。これにしも、わが幼きよりの、望はたりぬ。こは、これまたく、花神の恵み給へるならむと、うれしきことにこそ。」
 則孝が記す如く、鹿島家の屋敷は、慶長元年に、鹿島神宮の南に移転している。系譜、第五十六代・則興の条参照。

 ここに掲げた地図(HTML版では省略)は「旧鹿島町内図」の部分である。これは、幕末から明治初期にかけてのもので、鹿島古文書クラブ(会長、鹿島則幸氏)編『祭頭祭史料T・古文書編』(昭和62年3月31日発行)の付図として作成されたものである。
 則孝は、幼い頃から桜が好きであったという。この鹿島神宮に隣接した、五千三百坪という広大な屋敷に咲き乱れる桜を眺め、我が望み叶えりと、満足する則孝の様子が目に浮かぶようである。七十一歳、明治十六年、桜山の園の桜を賞じた文が、続けて記されている。

「  桜をめでゝ                七十一叟 鹿島則孝
わが隠家の園に、時じくに、花さく桜三種ありけり。その一は、花も常の山桜よりも大いなる一重にて、うす紅の色をふくみ、猶つぼめるほどは紅にして、茎は長くなんありける。いま一は、こも一重にて、色は白きがつぼめるほどは、心ぼそきまで、くれなゐをふくみたるが、茎は短くて、梅などに似つかはし。あとのひとつは、世に彼岸ざくらとかいふにて、紅いとふかき八への花なり。この三くさの花は、秋冬も知らぬにや、常磐にわか葉生出て、いつも、春なるといはむさまに、実子さえ常に結びて、花は秋分の季候より春分の頃まで、枝に絶ることなく、げに、よにもめづらしき、桜なりけり。そのさまはしも、秋の隈なき月かげに、おきそふ露ゑむに、やさしく匂ひ出、紅葉する、同じ梢のそのうちより、しろく咲出たるは、春秋のながめを、ひとゝきにしめし、落葉するほどは、世に、かへりざきとかいふ、はかなきたぐひには、にもやらず、ときめきいで、また、しづけき日かげには、こと更に、花もおほく、若葉もつや/\しく生出でゝ、またきに春の通ふかとうたがはれ、雪のふり、はれし夜半は、月に映ふかげの、ものすさましくはあれど、月雪花の、三つのながめを、あつめるも、おもしろし。きさらぎ、弥生の頃は、わけてもいはず、また、五月の初めつかた、しげりあふ梢の涼しきかげに、猶咲のこれるは、青地の錦に、玉をつゝめる心ちぞする。折から、ほとゝぎすの、しのび音に、なきゆくなど、なにこゝちせむ。されバ、かく、時じくにさけるを、見つゝ楽しき月日をおくる、花好のひがくせある老が身は、やま人の、すむといふなる、よもぎが島にも、まさるらむと、おもはへて、うれしきまゝに、かく、ものゝはしに、書つけおくになむ。     」

 巻一の上下二冊は、「月雪花之部」と題して、古今の名歌や記録、また、自ら各地の花見をした折の印象など、意の趣くままに記されている。
 観月については、巻十五の一の「翫の記」を紹介したい。

「壱 翫月の記  明治十七年一月より十二月にいたる
 昔より風流の心ある人々は、世に月雪花と、三つのものを、翫のたねとせられしが、雪と花とは、その時季ありて、一とせの内に、僅の間、もて遊ぶものにて、月は月ごとに、見ざる夜はあらず。されど、又、夜ごとに翫ぶにもあらず。或は雲に隔てられ、雨にさへられ、猶、冬の夜の風吹あれ、軒ばのたる氷、梢の雪にさゆる影は、むかしの、かしこき清氏の何某女の、云ひ置れしごとく、すさまじきものゝかぎりにて、中々翫ぶものにはあらず。然はあれど、まれに夜深く起出て眺れば、隈なく、いさぎよきは、その夜の光りに、まさるものはあらず。夫すら今の御世は、日々にひらけ行く御恵みにて、ガラスてふもの、あまた出きて、そを、さうじにはりて、その内に埋火かきおこし、ぬくもりゐて眺れば、寒けき風も知らず、中々におもしろきものにぞある。己、七十ぢにあまりて、明日をも頼まれぬ、身にしあれば、今年は、殊さらに、此三つの眺を、飽たるまでもせばやと、新玉のとし立しより、心にしめて、眺あかせし、夜半の月の光りを、うつし置になむ」

 このような前書を付し、以下に一年間の月の様を、十四丁に亙って記している。

「十七年一月九日〔節は小寒〕(陰暦十二月十二日)空よく晴、朝凪よし。午前十時より乾の風吹出、追々つよく、夜に入ても猶止ず。〔寒暖計正午五十九度、華氏〕新年の月、こゝろよくはれ渡り、寒くはあれど、おもしろし。〔一日は陰暦四日にて、是ぞ、新年の新月と云ふべきなれども、わづかの光りゆゑ、愛る程もなし。依て不記。今宵はガラスの内より見〕
「十三日、暁より雨降出、ひる前九時よりはれ、追々快よく晴、霞初て立昇り、俄に春の気色催す。(同十六日)〔六十度〕満月、うす霞のひまより匂ひ出たるさま、いとうるはしく、まだれより春の心ちし侍りぬ
  あら玉のとし立かへるしるしにや
    また冬なからかすむ月かけ
「四月九日、晴る。南風吹(同三月十四日)〔東京に旅寐ゆゑ、寒暖計は知らず〕。浅草諏訪町なる寓居にて眺るは、宮戸川の向ひより昇る月かげ、しづかなる漣に宿り、いとおもしろく覚えたり
  宮戸河漣かすむ春のよは
   月の御舟も流さりけり          」
「十九日、晴る。南風吹、長閑なり。暁(同廿三日)有明の月、かたぶきながら、宮古川の向ひなる、桜の梢に、匂ひしらみ行くさま、いとめざまし
  うらゝかに明ゆく花の色見えて
    霞こめたる春のよの月
  宮古川かすみによとむ浪のうへに
    残りてしらむ有明の月
此月は、東の都の旅寐に、めづらしき月花を眺めむと思ひしも、曇りがちにて、ほゐなかりし
「十月一日、晴、ひる前七時より霧立、雲かゝる。凪たり。(同十三日)雲間の月清し。今日は、孫三人りとゝもに、朝熊山へのぼる。山路の千草、今を盛りにてうるはしく、高ねより、四方の見わたし、いとおもしろく、某はたごやにて、終夜月を眺て、
  朝熊山くまなき月に見さくれは
    麓の里は霧こめにけり
「〈十二月〉卅一日、晴、西風吹(同十五日)〔四十八度〕。月、隈なく晴たり。埋火に寄り添ひて、更る迄眺たり。此月は、日々天晴れて、今年中に稀なることにて、連夜、月を眺めたり。大つごもりの夜は、一層隈も風もなく、いとしづかにてありしゆゑ、厭まで眺あかしたり。
  霞むよにめてゝ神より一とせの
    月はのに影こほりけり
  行としの道はいつこと仰ふき見る
    みそらにさゆる夜半の月影
 …………
  明治十七年十二月三十一日午後十時誌終
                      七十二叟 鹿 島 則 孝」

明治十七年の正月、七十二歳になった則孝は、老い先の短い事を思い、今年は、月と雪と花と、自分が長年愛でてきた、この自然の風物を、心ゆくまで眺め、味わい、楽しんでみようと意を決する。

「翫月の記」には、一月一日より十二月三十一日までの間、延べ九十八日の月との出合いが、歌と共に記されている。
 花については、冒頭でも桜についての文章を掲げたが、巻三十四の「観花日記」がまとまっている。

「明治十八年、春まだきより、大和の月の瀬の梅、京都、大阪、吉野の桜花をも見むと思ひ立しを、常の年よりも、寒さつよく、雪さへしば/゛\降りぬ。かくて、やゝ暖になりぬれば、又、霖雨ふりつゞきて、旅立べき日もなく、すごしけるに、四月といふつきに、則文が、月の勢も、やゝ花のさかりになりぬと、人のいふなるに、旅だち給へ、と何くれと、とゝのへて、ねもごろにすゝむるに、いとうれしくて、いよゝ思ひ起して、心がまへするほどに、今日、中の五日は、昨日までも、をやみなき春雨の、名残なく晴わたり、風さへなぎたりければ、まづ、正午の頃より、皇大御神の御前に、暇申しにまゐのぼりて、道のほどやすかれと、ねぎまつり、御苑の内を、見めぐれば、梅もまだ、にほひふかく、咲のこりたるに、桜の早きが、いつしかと、ほころび初めたるを、鳥の囀る声さへ、のどかに、おかしければ、翌日の、たびぢのほどさへ、思ひやられて、うれしく、心も空にいそぎ、やどりに帰て、旅の調度ども、取そろへなどす。さても、こたびの旅路は、道の連もなく、只、則文が雇の、腕車夫、村田伊助といへるをのみ、ともなへり。この男、ことし三十年にて、足の健なるは、こゝより京都まで、三十六里の途路を、一日の内に、ゆき着くとか。翌日は、まづ、月がせに、ものせむとて、道のり、心得たる人に、尋るに、宇治のさとを、距ること二十里余りにして、大和国添上郡尾山、長引、月の瀬、其他十あまり五六の村々、皆、梅なりとぞ。                   」

 則孝の花見の旅は、則文抱えの車夫・村田伊助との二人旅で、明治十八年四月十六日、宇治山田の浦田町を出発している。
 十六日 →古市→桃山(彼岸桜)→豊宮崎の文庫→豊受ノ宮→宮川堤
 「此堤の上に許多の桜あり。彼岸と早き山ざくらは、半ばすぎひらきて白きに、長き堤は、若草萌出て、みどりうるはしう、見すごしがたくて、しばし茶てむにやすらひて見やるに……宮川橋は、二百間余りにて、鄙にはまれなる大橋也。こゝらのさまは、東京の隅田川によく似たり。遠かたをながむれば、山々の霞の黛こまやかに、雲井にもゆる糸遊、のどかにおもしろく見ゆる物から、去年の春、すみだ川に則泰と遊びしことなど、思ひ出るにも、又、いづれの春か、又見るやと、そゞろなつかしくて、
  宮川のはなのさかりを来て見れは
    なれしあつまの春そ恋しき            」
(「宮川東堤の桜花」の絵、2丁あり)→小俣→明星→斎宮→櫛田→松阪(磯部屋にて昼食)→久居→長野→平松(伊勢屋に泊る)。
十七日 →上野→白樫→石打→尾山(鍛冶屋兵蔵方に泊る)。
「尾山にいたるや、知るべの梅が香を、とめつゝゆくに、心もさらに、あなたこなたと、さまよひあさるほどに、いと高き処にいたる。こゝぞ、聞及びし一目万本とか云ふ所にて、かたはらの、あやしげなる茶店にやすらひて、やがて、谷の上にさし出たる、おほひなる巌に上りて、見さぐれば、麓の方は、千ひろの谷間に、幾千万のかずしらぬ、梅の林立つゞき、今をまさかりなるも、少し散りかたなるもあれど、たゞ、白雲のかさなるかと、うたがはる。向ひなる、月の瀬の方を見わたせば、山も岨も花ならぬ処なく、中を流る谷川は、藍をひたせるごとく、岩にくだけてちる浪は、玉をちらすかと疑れ、えもいはず、いつまでも、ながめは、あかねど、こゝを立出て、花をわけつゝ岨路を下れば、長閑なる春風に、消やらぬ雪の袖に散しくを、
  枝なから梅の花笠かさしけり
   を山長ひきあさるもろ人         」
(「尾山村一目万本」の絵、4丁半あり)
十八日 →沓掛(光仁天皇陵)→鉢伏峠(石切峠)→沢の池(彼岸桜盛り)→立田(法隆寺)→龍田ノ社→国分村(橋本屋に泊る)
十九日 →大坂・天王寺(八重桜数十本)→生国魂杜→天満天神→桜の宮
 「綱島の北なる桜の宮にまうづ。……此地は、淀川の東岸にして、境内は、さながら汀より堤までも、一つらに桜立つゞきて、古木も見えたり。花は彼岸桜も、一へ八重もあれど、近き頃は肥料、培など怠りけむ、老たる木は、枯たるもあまたあれど、植つぐ信徒も無く、名にしおふ、桜の宮には、似つかはしからずおぼゆ。……昔は、西の河岸にも、北につゞきて、長柄の里のほとりまで列りて、数多の桜ありて、淀川を挟みて、両岸とも、花のうるはしき浪華第一とか聞しが、今は、さはなくて、西の河岸、天満の川崎には、造幣局の煉瓦造りなるが、立つらねて、局の外、河岸通りに、若木の八へ桜を栽たり。半ば咲出たる様うるはし。今より六七年も過ぎなば、桜ノ宮にも、まさるべく思はる。此地は、なべてのさま、隅田川によく似たり。
  みつ垣も花の雲まにかくるゝや
    桜の宮の名にしおふらむ         」
(「摂州桜の宮花盛」の絵、1丁半あり。口絵参照)→今市(昼食)→守口→枚方→淀・池上町(木下八五郎方に泊る)
 二十日 →伏見→竹田→烏丸通り松原南(西村吉兵衛、伊勢神宮装束方御用達)→富小路三条南(和田いは方に泊る)
 廿一日 →伏見稲荷→桃山御殿→観月橋(宇治星にて、西村の饗しにより、澱川名産、鯉の洗を食す)
 廿二日 →吉田ノ社(桜の老樹あまたあり)→法然院→若王子ノ社→永観堂→南禅寺(会席料理、瓢亭にて昼食)→粟田神社→智恩院(桜の古樹・若樹あまたあり)→祇園山
 「祇園山〔八阪神社の旧境内也〕とて、こゝらに、めづらしき糸桜の老樹あり。幹は大凡弐囲もあるべく、丈けは三丈余りにて、花は白き大葩にて、浪のよせたるがごとく、垂れたる枝は長くして、滝のごとく、今日を真盛りにて、二ひら三ひら、散り初たるさまは、水の玉ちる心地して、えもいはず、木蔭の茶店に久しく憩て、ながむるに、今朝より見越し花の内にも、ことにすぐれてめざましくおぼゆ
  春の日のなかきをたまきくりかへし
   見れともあかぬ糸桜哉          」
→西大谷・本派本願寺別院→祇園町→八阪神社
 「今日、舞妓のわざをぎを見て、
   立ならひ物いふ花のわさをきは
     まことのはなもおよはさり鳧
   帰り路にて
   乙女子かはなみかへりのゑかほまて
    桜いろなる春の夕くれ         」
 廿三日 →立売御門
 「立売御門の内なる、旧の菊亭家の邸址なる、高名車返してふ桜を見る。花は一へと二重の、紅ふかき大葩にて、古木三株あり。みな、けふを真盛りにて、薫いと深く、是ぞ洛中に類なき桜也といふ。実にさもあるべし。まろも車を止めて、やゝ久しくながめをりて、
   いさこれを家つとにせむ花のかを
    たもとにとめしたひのなれ衣       」
→北野ノ社→平野ノ神社→宝蔵寺(珍しき桜の大樹あり)→仁和寺→嵐山・大堰川
 「 またたくひあらしの山の花のかけ
     うき世のほかの春にそ有ぬる
   玉しきのみやこにもまたたくへ見む
     ものはあらしの山さくら花
(「洛西嵐山 桜花」の絵、2丁あり)
廿四日 →加茂ノ社→修学院(今は内務省の許可が必要とのことで、入れず残念)→詩仙堂(探幽筆・丈山像、竹の如意等を見る)→下加茂ノ社→(夜、神宮製暦の用紙の御用達、田中惣輔・大森次郎兵衛と歓談)
廿五日 →御所(左近の桜を見る)→新京極の街→知恩院(茶屋で桜餅を食す。蓮月尼の短冊を添える)
 廿六日 →京を出発→豊国社→智月橋→玉水(松屋にて昼食)→奈良→春日社→柳生(木原屋に泊る)
 「柳生駅にては、木原屋ぞよき店也、と教ふる人のあるによて、やどりしに、昔はよき店にや、家作りもいと広く見ゆれど、近き頃は衰しにや、いたくあれて、客人も無く、浴湯の設けさへなく、すべての饗あしく、然れど、賄の価はむさぼりたり。斯くては、みせの、おとろへるも、ことはりなりき。終夜、雨風あれたるに、明日のこと、いかにやと、心ぐるしくて、
  みよしのゝ花やいかにとしのはれて
   あらしにゆめもむすはさり鳧        」
廿七日 →綏靖天皇陵→神武天皇陵→高取→吉野川の若鮎で昼食→六田村→吉野(一目千本)
 「山路は左右とも桜のなみ木あり。されど、古木は稀にて、三尺許りもまはる若木どもなり。路もさのみけはしからず、名高き一目千本の桜と云は、岨より谷間に、ひまなく生しげるを、山の上より見おろす也。尾山の梅の万ぼん見も、これより出し名なるべし。其さま、よく似たり。今年は、花も常より早かりしが、一昨日の雨風のために、もろくも散り果たり。抑も、此山の桜は、初より葉の早く出て、花と同じく茂る質なるに、花もさゝやかなる一重〔鹿島の、まろが庭の古木の桜と同種也〕ゆゑ、一日、雨風の誘ふ時は、たちまち数はてるとか。然れど、木立しげきゆゑ、咲揃ふ時には、雲とも雪とも、見まがふばかりなり。若し、一樹づゝへだてゝ咲出なば、眺すくなからむと思はる。斯ちりはてし中にも、まだ苔のゑみ出ぬも、今日をまさかりなるも、所々に、あまた見えたり。同じ所にて、かく後れ先だつは、樹の質にやよるならむか。         」
(「吉野山 一目千本桜」「同奥千本桜」の絵、3丁半あり。口絵参照)→口ノ宮→吉水ノ社→竹林院→奥の一目千本→水分ノ社→峯ノ宮→安祥寺→西行庵→蜻螟が滝(絵、半丁あり)→大滝村(ここに泊る。山里故今猶寒しとて巨燵のもてなしあり)
廿八日 →宮滝村(絵、1丁あり)→口ノ宮(佐古屋で昼食)
「昨日けふ、山めぐりするほど、
  枝かはす桜に空もわかぬまて
    花くもりする三よしのゝやま
  一つらに霞もくもゝかをるなり
    花にうもるゝみよし野のやま
  いく千町たとる山路は桜にて
    花にはてなき三吉野の山
 同し所にたびねして
  見し花のその俤の身にそひて
    ゆめも結はぬ草まくらかな
 よしの川にて
  吉の川庭すみわたるしら浪の
    花をちらして下る筏師       」
(「早川に筏を下す図」の絵、1丁半あり)→桜井(徳山市平方に泊る)
廿九日 →初瀬→萩原→三本松(伊勢屋で昼食)→早川→名張→阿保→伊勢路(紅葉屋に泊る)
 三十日 →桜峠→垣内村(伊賀屋にて休憩)→松坂(鯛屋にて昼食)→櫛田→山田→四時三十分、浦田町着。

 往復、およそ百四十里余り、十五日間の旅であった。各地の梅や桜を、心ゆくまで賞翫した則孝は、翌五月一日、無事帰着の御礼を伊勢の大神に申し上げている。この度の旅で、花以外の事で感じたのは、京都・大阪・大和、いずれも不景気という事であった。それに引きかえ、目の前の、この伊勢神宮の人盛りに、改めて感じ入る。
 「大神の宮にまうのぼる人を見て
   皇神にねきことすとて道もせは
     ゆきゝたえせぬ春の諸人
    明治十八年五月         鹿島則孝記〔七十二年三月〕」

 鹿島則孝の歌文を紹介するために、その一部を掲出したが、巻三十三には「二十年の観花」(18丁)、「勢州度会郡野後村阿曽村観花の記」(12丁)なども収録されており、則孝の花に対する思いが、一通りのものでなかった事がわかり、幼い頃から桜が大好きだったという、言を裏付けてもいる。さらに、この巻三十三には、二つの紀行が入っている。 「南総道之記」(15丁)は、則孝が三十二歳の時のもので、実家の筑紫家の領地である、上総の国への旅日記。虫損があるので、明治二十年に書写したとある。「日光筑波両山紀」(18丁)は明治九年の紀行である。
 『桜斎随筆』全六十冊の中には「あすか川」十五冊を除いた他の巻々にも、この種の、単なる記録の域にとどまらず、則孝自身の創作物が少なからず含まれている。


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