鹿島則孝の生家

 則孝は、幕臣・筑紫佐渡守孝門の三男として、江戸牛込逢坂に生まれた。その生家の様子を、則孝自身、次の如く記している(『桜斎随筆』巻四)

「則孝が実家、筑紫の邸は、牛込逢阪の角にて、牛込と市谷の堺なり〔右隣は、市谷田町三丁目、実家は、牛込の部也。門前町、家は市谷船河原町也〕。右故に、諸物品を買には、毎日、東の方〔即左方也〕牛込寺町と云ふ所へ、小使男〔中間の中より撰び定め置也〕を遺す事也。文政年中より、寺町の手前なる、神楽阪といふ所〔市谷田町四丁目、失火後取払ひになり、神楽阪を代地に賜ふ〕に、町家繁昌して、諸物品を商ふゆゑ、寺町迄不行して、諸事足り、これにて買也。神楽阪へは、毎日昼前昼後と、両度づゝ遣す。西の方〔即右方也〕市谷田町へは、隔日に遣す也。若し、其時に買物申付ざれば、翌日まで買事能ず、至極不自由に覚たりき。又、日本橋最寄をば、山の手辺にては、下町と称し〔これは、九段阪より下たと云ふ心か〕、筑紫などにては、一ケ月に一度宛、買物に遣す也〔小使にあらず。外の中間二人づゝ、御膳籠を担ひ行く也〕。其時には、前日に、明何日、下町使出し候、と奥向は勿論、長屋住居の家臣へも、戸毎に触る也〔買物は、数品ゆゑ、間違無き為に、金銭に紙札を付、何品何銭と書付、奥向は、何印、家臣等は、苗字抔、巨細に認置て、使の者に、申付るなり。又、隣家などの、小高旗本抔も、頼入て買事もあり〕。此日、忘れて買ざれば、次の月迄、買事能はず、甚不都合也き。日本橋迄、大凡壱里余もあり、此日は、京橋以南、芝辺までも、使の者は行く事也。ゆゑに、短日には、未明に出て、夜に入て帰る也。
○予が幼年迄は、門前の商戸大方貧にて、不便也〔食物店は、豆腐屋、麩屋、居酒屋のみ、米屋は一軒あり、酒屋へは二町余〕。然るに、天保の末より、可成り、鮓屋も出来、従前よりありし居酒屋抔も、少く中等に成たり。外に料理屋も出来、追々繁昌す。これは、近年、米価騰貴に随ひ、武家の金融、よろしく成りし故、自らに、食物店の繁昌する也〔此門前町、家貧窮もの也。先年、再度の飢饉の時、筑紫より、白米弐百俵宛、二度施行せり。其以後、俄に富有の評判高く成りしと云〕。前条の如き故、天保以前には、実に俄の賓客などある時には、饗応に困却致されしを、予も幼年ながら覚居れり。
毎年、正月初には、年始の来客絶間無く、父君には、日々諸家へ祝詞として、御出故、来客には、母君、兄君、御面会被成〔予も面会する事有〕。甚繁忙也。殊に母君には、毎早朝より、髪結、入浴、粧ひ被成、七日迄は、地赤の服に、白無垢重ね着用にて、客来れば、かひどりを着給ひ、面会せられ、饗応には、冷酒、燗酒、吸もの、取肴〔二種〕出す〔先年は、雑煮も出しが、近年、互に略す〕。刻限によりては、昼飯も出す〔これは前日より、頼の申込書状来る〕。婢も皆、衣服改、〔役柄に寄り、惣模様、裾もやう等給分つ〕。又、毎朝、親族、知己等へ奥向より、年始状差出す。夕刻には、返書来る。日中には、諸家より、年始状来る〔直に返書遣す〕。近親へは、文のみならず、品物の贈答もあり〔奉礼とて、右筆の女、兼て認置ども、万端、母君差図被成候。右故、其多忙思ひ遣るべし。予など、たま/\、歌がるた、双六、など、初て遊ばむとするほどに、忽ち客来の障りにて、止むるを残惜く思ひたり。故に夜を更して遊るあり〕。
八日よりは、略服にて、男は服紗小袖〔朔日迄は慰斗目〕、女も模様に被成候。十六日よりは、平服に成るなり〔酒肴も出さず、茶菓のみ出す也〕。大体廿日頃迄、客来あり。
○暑寒の見舞も、客来、右同断也〔但、酒肴は出さず〕。昼飯は、頼あれば出す〔年始、暑寒とも、来客の供方どもは、皆弁当持参也〕。別して、暑中見舞の客は、早朝より入来故、未明より起出て、待受居る也〔右の如きゆゑ、年始は勿論、暑寒中に、母君には、昼飯は大方時刻に食し給ふ事稀なりき〕。
○家来共給分、譜代の家老〔壱人ツヽ用人供より登揚〕、玄米七拾俵より百俵迄ニ而、其人物ニ寄て不同也。用人〔三人或は四人〕同五拾俵より四拾俵迄。給人〔弐人或は三人也〕同四拾俵より廿五俵迄〔米は何れも四斗入〕。近習〔人員不定〕金八両より七両迄、外に弐人扶持米にて。中小性、金六両弐人扶持〔妻あれば、近習も中小性も一人扶持増遣す。近習已下、戸毎ニ塩噌代金少々づゝ遣す。○主人の髪を結者へは、別ニ金を遣す。但、米価は高下ニ不抱、俵数は定まり也。又、糯米は、何俵何斗と家族の員数に随ひて、外ニ毎年遣す事也。○米は主従の分とも、米搗男を抱置て搗せ、其給金は主家より遣し、家臣どもは無代価にて搗せる也。糯も同断也。○家老より近習侍迄は、主人の衣服を毎年恵遣也〕。
女共の給金は、老女〔壱人或は側女ニて兼帯〕壱ケ年金拾両より八両迄。側女同三両。次女同弐両弐歩。小間使〔小女、小性〕同壱両弐歩。茶の間女〔御膳の菜ごしらへ致也〕同弐両弐歩。末の女同弐両也。外に押并て、菜代として、一人に付一ケ月銭弐百文宛遣す也。又、主人之心添にて、老女より小間使迄へは、毎年主人の衣服或は物品を遣す也。〔右の如くの少給金にては、縮緬以上の衣服は、中々着用する事は、出来ぬ訳なれ共、大方は、その親共が、上等の事、見習の為に、奉公させる故、衣服、髪結等は、自分より持出にて、勤る也。婢共の中、大方は相模産にて、同国は、習らはしにて、一度江戸へ出奉公せざる婦人をば、嫁に貰はぬ抔云とぞ。夫ゆゑ、実父母共が、物を費しても、見習に奉仕させるよし。尤も、屋敷に因りて、給金よりも、多分の衣服諸品をも恵み遣すもあり。予が母君などは、毎年、あまたの衣服、物品を恵賜ひ、縁付時などには、品々恵み給ひしを、予も覚居れり。其恩を忝思ふゆゑにや、婢ども、長く重年して、勤仕致し、暇を遣して後も、江戸内は勿論、他国の者迄も、毎年機嫌伺に参りたり。其一事にても、慈恵の程思ひやられたり〕。
前に記す如く、筑紫より下町へ、買もの使出す時には、前々日頃、隣家の藩禄旗本共へ通ずるゆゑ、隣家の、久世忠右衛門〔広政と号す、高三石俵、御小性組番士也〕方より、度々男もの頼越したるが、其品々の中にも、住吉町の竹村喜兵衛見せの灸を、毎度頼れたり。母君、久世は小身者の事故、憐み給ひて、いつも代価を断り、進物になし給ひけるが、或夏、灸の礼謝とて、母君の日頃、嗜まるゝ技豆を贈るとて、興歌
                       源広政
 戴てばかりいぶきのさしも艾沢山すゑて豆に成けり
中々の風雅人にて、和歌も可なりによみたり。又、三絃もひきたり 長唄(ママ)
如斯、近隣へ迄も、慈善の御心深かゝりし母君の陰徳、今に至りて、其陽報、予に、意外の幸ありけるにや、いとも畏し。 」

 則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外濠に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。
 この屋敷跡の道の分岐点に「逢坂」についての史跡の標柱(新宿区教育委員会)が建てられていて、
「昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。」
と説明されている。この伝説に関しては『江戸名所図会』などに詳しく記されている。また、この逢坂の反対側の高台には、現在、東京日仏学院があり、その下の角に筑土神社があり、そこに「堀兼の井」の史跡がある。

 則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、ここには、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。
 生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。
 正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き止められている。
 さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。
 則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。これらに関しては、いずれ、詳しく紹介したいと念じているが、今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日
父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳靹霊神 明治元年戊辰六月九日 同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 石靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三

筑紫家先塋  東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同      同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋  同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋 同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗 」

 旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

 則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。

 孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、主席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。
 鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。


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