斎藤親盛(如儡子)の研究
目次
@、 仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
A、『可笑記』と儒教思想
B、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
C、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)
D、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)
E、『可笑記』の諸本
@、仮名草子研究の思い出――今後の課題と計画――(昭和女子大学 最終講義資料)
●は じ め に
■仮名草子(かなぞうし)
■仮名草子の範囲と分類
1、卒業論文のテーマ
2、作品本文の書写
3、諸本の調査
4、作品研究
5、如儡子という人物
6、如儡子の伝記研究
7、伝記研究の方法
8、酒田の調査(如儡子出生の地)
9、二本松の調査(如儡子終焉の地)
●おわりに(今後の課題と計画)
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●は じ め に
■仮名草子 (かなぞうし)
近世初期、慶長(1596〜1615)から天和(1681〜84)にかけての、約八十年間に作られた、小説を中心とする散文文芸の総称。この近世初期は、日本歴史の中でも代表的な啓蒙期であり、この時期に、漢字(振り仮名付き)交じり仮名書きの通俗平易な読み物が次々と作られた。これら一群の文学的著作に与えられたのが「仮名草子」という名称で、その数は三百点にも達する。原本は、写本または版本(古活字本・整版本)として伝存するが、出版の黎明期にふさわしく、全体に版式もおおらかで、大きな本が多い。仮名草子は次の如く分類し得る。(1)啓蒙教訓的なもの(教義問答的なもの、随筆的なもの、女性教訓的なもの、翻訳物)、(2)娯楽的なもの(中世風な物語、説話集的なもの、翻訳物、擬物語)、(3)実用本位のもの(見聞記的なもの、名所記的なもの、評判記的なもの)(野田寿雄説)。この分類からもわかる通り、仮名草子は複合ジャンルの如き性質をもっている。文学史的には、お伽草子→仮名草子→浮世草子と接続するが、これを小説の系列として考えるならば、小説以外の作品をどう扱うべきか、という問題が今後の課題として残されている。
【参考文献】坪内逍遥・水谷不倒『近世列伝体小説史』春陽堂、明治30年。水谷弓彦『仮名草子』水谷文庫、大正8年。水谷不倒『新撰列伝体小説史 前編』、春陽堂、昭和7年。野田寿雄『日本近世小説史 仮名草子篇』勉誠社、昭和61年。近世文学資料類従・仮名草子編・古板地誌編全61冊、勉誠社、昭和47〜56年。仮名草子集成1〜21、東京堂出版、昭和55〜平成10年。野田寿雄校注『仮名草子集』上・下、日本古典全書、朝日新聞社、昭和35・37年。前田金五郎・森田武校注『仮名草子集』日本古典文学大系90、岩波書店、昭和40年。青山忠一・岸得蔵・神保五弥・谷脇理史校注『仮名草子集 浮世草子集』日本古典文学全集37、小学館、昭和46年。渡辺守邦・渡辺憲司校注『仮名草子集』新日本古典文学大系74、岩波書店、平成3年。深沢秋男・小川武彦・菊池真一「仮名草子研究文献目録(明治〜平成)」菊池真一『恨の介 薄雪物語』和泉書院、平成4年。(深沢秋男)
(『日本古典籍書誌学辞典』1999年3月10日、岩波書店)
■仮名草子の範囲と分類 (深沢秋男)
水谷不倒氏が「仮名草子」と命名してから既に百年が経過しようとしている。研究の進展と共に作品の数も次第に増加して、現在では三百点に達する勢いであるが、これには、昭和47年完結の『国書総目録』が大いに与って力があったものと思われる。
この間、「仮名草子」という名称に対する検討や批判もあり、作品群の分類に関しても様々な意見が提出されて今日に及んでいる。
これは、現在、仮名草子として扱われる作品が、当時の書籍目録(寛文10年版)を見ると、「仮名仏書」「軍書」「仮名和書」「歌書 并 物語」「女書」「名所尽 道之記」「狂歌」「咄之本」「舞 并 草紙」等の各条に散在している事からも解るように、この名称が、いわゆる文学ジャンルとしての命名でなかった事と関連している。強いて言えば、複合ジャンルの如き性質をもっており、この事が、仮名草子の範囲や分類を複雑にしているように思う。
仮名草子の範囲を考える場合、留意すべき事項について、今、思いつくままに、列挙してみると以下の如くである。
@御伽草子との関連。
A浮世草子との関連。
B評判記(遊女・役者)との関連。
C軍書、軍学書との関連。
D咄本との関連。
E随筆的著作との関連。
F名所記、地誌、紀行との関連。
G教訓書、女性教訓書との関連。
H仮名仏書、仮名儒書との関連。
I注釈書(・・・抄)との関連。
J翻訳物、翻案物との関連。
これらの、各項を具体的に検討してゆく時、各項相互の間に、出入りがあったり、この他に加えるべき項目があるかも知れない。
@の御伽草子との関連は、いわゆる上限の問題であるが、時期は、徳川開幕以後とし、それに、中世との過渡期としての、安土・桃山時代を含めて、一応考えておきたい。この項で注意したいのは、寛文頃の刊と推測される、渋川版の御伽草子を仮名草子に入れるという説のあることである。確かにこの一群の御伽草子は、近世初期に出版されることによって、より多くの読者に仮名草子と同時的に享受されたものであろう。また、写本→版本の過程で、異同も生じているであろう。しかし、文学作品の史的定着は、あくまで、その内容と成立時期によって評価し、位置づけるべきものと思う。これらの御伽草子は、中世的世界観の下で創られたものであり、これを近世の作品とするのは妥当と思われない。なお、写本を除外するが如き考えが一部にみられることであるが、これも、写本であると刊本であるとに関わりなく、この近世初期に創られた作品全てを対象とすべきものと思う。
Aの浮世草子との関連は、下限の問題で、天和2年の西鶴の『一代男』の刊行を一つの目安にする事に異論はないようである。その場合も、仮名草子と一線を画する、浮世草子の新しい特色、傾向についても検討して、いずれに属するかを判断すべきものと思う。
BからJは、中世の御伽草子系統の、小説的な作品(草紙)とは、やや異なる、娯楽的、教訓的、実用的な作品群との関連である。これらの諸作品を仮名草子に入れるか否か判断する場合、まず、その文芸性が問われなければならないだろう。これについては、今後、一作一作、具体的に分析して、それぞれの作品の評価を判定する必要がある。
また、仮名草子は、小説的作品に限定すべきであるとしたり、さらに、小説に限定して、「近世初期小説」の用語を採用する、という意見も出されている。御伽草子→仮名草子→浮世草子と、これらを小説の系列として考える時、一応もっともな意見であると思う。しかし、そのように仮名草子を狭義に解し、他の作品を除くことは、研究史的観点から見て、時期尚早であると考える。現在、仮名草子とされている諸作品の具体的な調査、分析、評価等が十分になされているとは思えないからである。かつて、価値の低い作品は採り上げず、その事によって一つの評価を示す、という風潮があった。しかし、文学研究が科学である以上、そのような態度は、もはや、許されないであろう。一つ一つの作品の諸本調査と本文批評を行い、信頼すべき本文を確定し、それに基づいて、作品分析を行い、その属すべきジャンルを定め、文学的評価を出して、妥当な位置づけを行うべきである。
「仮名草子」という名称も、いずれは、その内容を整理し、物語、説話、随筆、紀行、評論等々に分離して、後続作品への展開をも視野に入れながら、改められる事になるかも知れない。ただ、今は、まだその時機ではないと思う。
仮名草子の分類に関しても、すでに多くの説が出されている。「いたずらに博捜を事として、書目の多きを誇り、分類・解説に憂き身をやつ」す、と厳しい批判もあったが、先学の諸説は、仮名草子の実態を知る上で、非常に有益であった。
3種、3種13類、3種16類、5種9類、5種16類、6種、7種11類、8種、10種と、実に様々であるが、それだけ仮名草子の内容が種々雑多で複雑あることを示している。私には、先学の諸説に対して、別の分類を提出する準備も力量も、現在のところは無い。ただ、分類の第一の基準は、やはり、ジャンルによるべきものと考える。
『分類の発想』の著者、中尾佐助氏は、分類の精神を示すキーワードは、枚挙・網羅・水平思考であると言っている。現時点での仮名草子の研究は、依然として、未だ研究されていない作品を俎上に載せることであり、より多くの作品を見渡して、これらに通用する基準で分類することにあると思う。
「仮名草子」に該当する作品は、これをことごとく集成し、一作一作、研究を進めることが当面の目標であり、これらを分解、再編する作業は、次の世代の研究者に委ねることになるかも知れない。
(早稲田大学蔵資料影印叢書 国書篇 第39巻『仮名草子集』同刊行委員会、平成6年9月15日発行、月報43)
1、卒業論文のテーマの選択
●私の卒論は、まず、大学2年の頃、自然主義文学の中村星湖に興味をもって、資料収集を始めた。早稲田大学に世話になったりしたが、うまく集められず、中止。次に、中世の西尾実先生について、世阿弥か道元をやろうと思い、少々かじったが、これは難しく、撤退した。で、中世に最も近い、近世初期の仮名草子に決定。
●何にしようかと思って、読んでみたのが『可笑記』であった。こんなに激しい批評精神にみちみちた、作品を書くのは、どんな人物であろうか? 以来40年、この作品と作者の解明にこだわってきた。こんな、非生産的な人生は、許されるのであろうか、そんな自責の念が強い。
■大きい作品だから、呑まれないように
●指導教授は重友毅先生。最初の個人的な指導の時、先生は、この作品は大きいので、呑まれないように、そう申された。この、お言葉は、以後、大変なエネルギーとなった。そう言えば、先生に指導して頂いたのは、この時と、あと目次を見て頂いた時と、2回のみであった。
2、作品本文の書写
●この作品は、『徳川文芸類聚』と『近代日本文学大系』に収録されていたが、これらの叢書をセットで買うには、学生の私には古書価が高すぎる。かと言って、端本など待っていても、いつ出るかわからない。で、毎日、大学の図書館や上野図書館で書写した。大学ノート全8冊に書写完了したのは、確か2年生の終わりの頃だったと思う。
■キミ、版本があるよ!!!
●上野図書館に日参して書写している時、出納台の掛の方が、この作品の版本もあるよ、と声を掛けてくれた。ハンポンて何ですか? 版本て、この作品が初めて出版された時の和本の事ですよ、江戸時代の・・・。その本を見せて頂けるのですか? そこのカードを引きなさい。オソルオソル、請求カードを出して待っていると、出てきました。これがハンポンか!!
●それからは、貴重書室で、版本を広げながら、活字本を写した。ああ、これがこの字か、やがて、活字本を広げながら、版本から書写した。従って、私の卒論に使用した『可笑記』のテキストは、活字本と版本の混合テキストであった。今、思えば、まことに杜撰なものと言う事になる。杜撰なものではあったが、近世初期から伝存している、和本を手にして、1つ1つのシミや虫食いの痕を見る度ごとに、作品の世界に近づいていったように思う。上野図書館の司書の方に、今も感謝している。
●しかし、その後の私の調査で、翻刻本の『徳川文芸類聚』も『近代日本文学大系』も、校訂者が使用した底本が、いずれも、寛永19年版と無刊記本の取合本である事を思えば、五十歩百歩という事にはなる。
3、諸本の調査
■280段か400段か???
●『可笑記』は『徒然草』に倣った随筆風の作品であり、幾つかの短文の集まりである。文学辞典や論文を調べていると、その章段数についてマチマチの説がある。275、279、280、400。諸説の中では、400段と言うのが最も多く、これが通説かと推測された。
●しかし、私が書写している版本は、どう数えても282の短文の集まりである。さて、どうするか。100段も多いテキストがあるのに、少ない段数のテキストで研究していては、作品の実態は解明できないだろう。略本と広本の関係であろうか???
●私は、400説を主張しておられる、大家の所へお邪魔して、その説の拠り所を質問した。しかし、ラチはあかなかった。結論は、ある有名な研究者が、適当に400と記した(私にはテキトウに、としか判断できない)、それを、以後の研究者は長い長い間、孫引きし続けた、というのが真相のようである。仮名草子は、これほどまでに軽く見られていたジャンルでもあった。
■『可笑記』の諸本
●私が『可笑記』の原本調査を始める前は、どのような種類の版本や写本があるか、明らかではなかった。学生の頃は、上野図書館、日比谷図書館、早稲田大学図書館など、東京の各図書館で閲覧・調査させて頂いたにすぎなかった。卒業後、関西や全国の図書館、そして個人所蔵の原本の調査へと広げていった。その結果、次のように分類するのが妥当と考えるようになった。
@ 寛永19年版11行本
A 寛永19年版12行本
B 無刊記本
C 万治2年版絵入本
D その他(取合本・写本)
これらの、全国の諸本を調査して、80点以上のデータを収集することができたが、これを公に発表したのは、昭和43年6月の、日本近世文学会の全国大会においてであった。席上、11行本・12行本の先後関係ついて、田中伸氏と長時間に亙って論争したのも、今は楽しい思い出である。
■『可笑記』原本・3点の伝来
【A】、 寛永19年版11行本(桜山文庫本)
●〔桜山文庫〕は、鹿島神宮大宮司・鹿島則文のコレクションである。この文庫は、則文のお孫さんの鹿島則幸氏が管理しておられた。公共図書館等の調査が終わった昭和40年、閲覧願を郵送したところ、則幸氏は、鹿島の書庫から水戸へ取り寄せて、調査させて下さった。水戸の常磐神社の社務所に通され、鹿島氏の使用される文机で、2時間ほどかけて、閲覧・調査を終了し、辞去しようとすると、「どうぞ、お持ち下さい」と申される。初め、私は、お言葉の意味がよく理解できなかった。「伯楽にお持ち頂ければ、祖父も喜ぶと思います」ようやく、鹿島氏の真意が理解は出来たが、ハイ、そうですか、とはお答え出来なかった。一度、帰宅して、改めて御返事申し上げます。と申し上げて電車に乗った。このような事が現実に有り得るのか。「桜山文庫」の円形朱印を持つ本で、岩波の『国書総目録』にも搭載されている原本である。私は世の中の不思議な事実に出会い、感激と感動の数時間を過ごした。
●この件を重友先生に御相談した。先生は、鹿島氏の御厚意をお受けして、今後、『可笑記』の研究に真剣に取り組み、その成果を上げて、鹿島氏への返礼としなさい、と申された。
●日を改めて、水戸へお伺いし、有難く拝受した。手土産のお菓子は持参したが、金品は一切差し上げなかった。以後、この十一行本は、私の手元にあり、諸本調査に活用させて頂いている。因みに、神田の池上文化財補修工房に依頼して帙を作って頂いた。
【B】、 無 刊 記 本(長澤規矩也氏)
●昭和43年度の春、日本近世文学会の大会で、『可笑記』の諸本の調査結果を発表した。会場は名古屋の熱田神宮であった。発表の直前、法政大学の長澤研究室を訪ね、調査済みリストを提出、結論を申し上げたところ、先生は大変宜しい、と褒めて下さり、御所蔵の丹表紙・原題簽の無刊記本をお貸し下さった。無刊記本は、20点以上伝存しているが、原題簽を存するのは、長澤先生蔵本のみであり、誠に貴重な存在であった。
●昭和45年4月、私は結婚したが、その記念にと、この蔵本を御恵与下さった。「深澤仁弟御内/昭和四十五年/成婚記念/長澤規矩也/所蔵一部書より」と中国の紅紙に墨書して下さった。これも、池上氏に帙を作ってもらい、長澤先生に書名を書いて頂いた。
【C】、 万治2年版絵入本(横山重氏赤木文庫本)
●昭和49年4月30日、文部省の科学研究費補助金(研究成果刊行費)を受けて『可笑記大成ーー影印・校異・研究ーー』を笠間書院から出版した。田中伸氏・小川武彦氏との共編著である。この研究に際して、横山重先生の絵入本を使用させて頂いた。
●昭和四十五年、横山先生から、以下の如き葉書を頂いた。
「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊/の「可笑記」は、貴兄の所有にして下さい。/贈呈します。/私はこの二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈して/ゐます。昨二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その/時、宛名だけ書いたこの葉書を吉田氏に示し、可笑記貴兄に贈呈の事を吉/田さんへ話した。で、その日に決定。御本できた時、二、三/部、私へ下さい。それで十分です。/四十五年十二月廿三日/横山重」
絵入本は30点程伝存しているが、どの本も、虫
損が多い。その中で、本書は虫食いが少なく、原題簽も完備している。巻2に落丁があるが、貴重な存在である。帙の題簽の書名は横山先生の筆である。
●桜山文庫本・寛永19年版11行本、長澤規矩也氏本・無刊記本、横山重氏本・万治2年版絵入本、この3点は、現在、私の所蔵となっている。有難い研究の経過である。
■甲南女子大学図書館所蔵、写本『可笑記』
●『可笑記』の写本は、東大文学部研究室に1本を所蔵するのみであったが、平成16年7月の調査で、新たに甲南女子大学に所蔵されている事が判明した。
●甲南女子大本は、平仮名書き主体の、極めて特異な本文である。この写本の位置づけは、平成16年12月の『近世初期文芸』第21号で詳述しておいた。
4、作品の研究
■『可笑記』の読み方、「カショウキ」か「オカシキ」か
●『可笑記』巻5の90段に「これぞ可笑記(をかしき=振仮名)のをはりなりけり。」とあるところから、この作品の書名は「おかしき」と読むべきだ、という説があるが、これでは、書名にならない。当然「かしょうき」と読むべきものと考える。
■『可笑記』の本文批評
●『可笑記』の諸本調査もほぼ完了し、次に、行わなければならない作業は、これらの5種の版本・写本の中で、どのテキストが、最も優れたものであるか、という判断である。これについても、私は、昭和44年11月『近世初期文芸』第1号の「『可笑記』の本文批評」で明らかにしている。@の寛永19年版11行本が最も優れたテキストであると判断し得る。従って、この作品の研究はこの、@に拠って行われなければならない。卒論の頃の、混合本文を思い出すと、誠に恥ずかしい。
■『可笑記』と『徒然草』
●『可笑記』の作者にとって最も重要な情報源は、中世の名随筆『徒然草』であった。仮名草子において、一般的に典拠の問題は、重要なテーマである。『可笑記』の特色を解明するには、兼好の『徒然草』との関連を明らかにする必要があった。私は、大学の卒論の頃から『徒然草』の文庫を持ち歩き、『可笑記』と関連ある条々を書き込んでいた。
●昭和女子大学に移り、日本文学紀要に最初に書いたのは「『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響」という論文であった。私が最も重要な主題と考えているものを投稿した訳である。『学苑』昭和59年1月、第529号である。ここで、私は、従来の諸説を整理し、自説を加えて、関連のある段々を指摘した。それは全体で60段に及んでいる。
●次の年の日本文学紀要では、「『可笑記』と『徒然草』−一の2、一の4−」と題して、この2段の関連を具体的に比較、分析して、その影響の深さを論じた。実は、この方法で、全段の影響関係を分析考察する予定であった。しかし、何故か、続稿を執筆していない。と同時に、『学苑』への投稿も一切していない。後年、鈴木重嶺の資料が昭和女子大へ寄贈され、その紹介記録までは『学苑』には執筆しなかった。これは、私の研究方法に関する事である。この種の論考は、一挙に単行本で発表するのが適当であると考えている。いよいよ、その時機が迫ってきたとも言える。
■『可笑記』と『甲陽軍鑑』
●『甲陽軍鑑』は武田信玄の軍学についての書で、全20巻。武田家家臣・小幡景憲の編纂したもの。近世初期の軍書のバイブルの如き存在で、大ベストセラーでもあった。戦国武将の気風を残す斎藤親盛は、極めて武士としての誇りを尊ぶ人物であり、それに、『甲陽軍鑑』には中国軍書をはじめ、儒教的色彩の強いものであった。この点が『可笑記』の作者をも引き付けていたものと思われ、両者の影響関係は実に大きい。
●私は、当初、古川哲史氏校訂の岩波文庫所収本(1巻のみの未完)や、磯貝正義氏・服部治則氏校注の人物往来社の注釈付きの3巻本を利用していた。これには大変教えられる点が多く感謝している。同時に『甲陽軍鑑』の原本も求めて両者の比較検討をしていた。
●その後、酒井憲二氏の研究が次々と発表され、勉誠社版の複製、汲古書院の大成など、氏によって『甲陽軍鑑』の基礎的研究は、ほぼ整ったことになる。このような諸先学の研究の成果を利用させて頂き、本格的な研究に着手した。この点、心から感謝している。
●このテーマに関しては、冨士昭雄氏の記念論集に序説を書き、以後5本の論文を発表し、これらを総合的にまとめて、文部省の科研費による共同研究(平成11年〜14年)の報告書に「近世初期文芸と軍書−−『可笑記』と『甲陽軍鑑』−−」として90ページの総括をした。私としては、ほぼ全貌をつかんだと思っている。
■如儡子の「百人一首」注釈
●如儡子に「百人一首」の注釈書がある事を発見、発表されたのは、田中伸氏・野間光辰氏が殆ど同時であった。これは、大きな発見で、私も大いに感謝した。感謝はしたが、お二人とも、研究の入り口で他界されてしまい、後は私が引き継がざるを得ない状況となってしまった。
●如儡子の「百人一首」注釈には次の諸本がある。
@ 『百人一首鈔』 水戸徳川家彰考館所蔵
A 『酔玉集』 国立国会図書館所蔵
B 『百人一首註解』 京都大学図書館所蔵
C 『砕玉抄』 武蔵野美術大学美術資料図書館所蔵
このうち、注目すべきものは、Cの『砕玉抄』である。実は、この本の所在は、御茶ノ水女子大学の浅田徹氏から教えて頂いたものである。この本は列丁装の写本で、本文も特異な部分をもっている。この写本は、私の感覚的な予想であるが、もしかすると、如儡子の自筆本の可能性があると思われる。万一、そうだとするならば、誠に僥倖、研究生活の最終段階で作者の筆跡に出会えた事になる。しかし、それは、今後の調査考証にまたなくてはならない。
■如儡子の大名批評『堪忍記』
●『堪忍記』と言えば、浅井了意の作品が有名であり、『梅花軒随筆』が如儡子の著作に『堪忍記』がある、としている記述は誤りである、と長い間考えられてきた。しかし、野間光辰氏は、了意の『堪忍記』の他に如儡子の『堪忍記』がある事を指摘された。これは画期的な発言であった。私は、これも、野間氏の指摘を引き継ぎ、研究を進めてきた。
●野間氏は、この著作の内部徴証からみて、如儡子の著作と推定されたが、私は、さらに、最上藩に対する著者の姿勢からみても、如儡子の著作である可能性が大きいと思っている。
●如儡子は、この著作で、各大名の石高等をかなり正確に記し、しかも、諸大名に対して様々な論評を加えている。この大名は人となりが良くないとか、家臣の使い方がひどいとか、下の下、下下の下、上の中、とかランク付けまでしている。それにしても、このような諸大名の石高や藩主の性格などの情報を、どこから入手したのであろうか。興味深い著作である。
■斎藤親盛の俳諧−−晩年の如儡子−−
●斎藤親盛・如儡子には、晩年に残した俳諧作品がある。万治3年、息子の秋盛(ときもり)が、二本松藩主丹羽光重に召抱えられ、一家は二本松に移住した。当時の二本松は、内藤風虎が藩主であった、岩城平藩と共に、東北では特に俳諧が活発な所であった。ここで、晩年の親盛は15年間を過ごした。
●親盛の俳諧作品は、内藤風虎撰の『桜川』に多数収録されており、斎藤友我との両吟百韻もあり、これには、松江重頼の批点が加えられている。貞門俳諧の第一人者・重頼の俳諧指導を受けたのである。俳諧作品を通して伺われる親盛・如儡子は、平穏な幸せな晩年であったものと推測される。酒田の奉行の子として成長し、主家の没落で浪人して、苦しい半生を江戸で過ごした作者も、その晩年は幸せな日々を送ったものと思われる。
■三教一致を論じた『百八町記』
●5巻5冊の『百八町記』は、寛文4年に京都の書肆中野道判から出版された。儒教・仏教・道教の三教一致を主張した著作である。一里三十六町、三里で百八町という書名の付け方である。内容的には仏教に重点がおかれていて、晩年は仏道(臨済宗)に帰依した著者をみる事ができる。この著書に関しては、私は未だ論を発表していない。これまでの研究を踏まえて、今後考察を加える予定である。
5、如儡子という人物
■如儡子(にょらいし)とは何人か
●私がこの作品を読み始めた頃は、「如儡子」がペンネームであることは分かっていたが、ニョライシかジョライシか、読み方もまちまちで多くの文学史などは、ジョライシが通例であった。しかし、この作者が自著の『百八町記』の奥書で「にょらいし」と振り仮名を付けているので、現在では、ニョライシと読むべきものと考える。
■生国東者なれば高才利発にもあらず
●如儡子は『可笑記』の中で、自分の事を「生国東者」であると書いている。そこから、あずま、つまり関東の出身であろうと思っていた。また、『甲陽軍鑑』を多く利用しているので、あるいは、甲州、山梨と関係があるのか、とも思っていた。ところが、実際は山形酒田の出身であった。
■如儡子は、正保〜万治期の、尾羽打ち枯らした浪人か?
●如儡子は、もと武士であったが、正保・万治の頃相続く転封改易のあおりをくった浪人らしいという事は、早くから分かっていた。尾羽打ち枯らした浪人で、書物もろくに買えず、乏しい知識で聞きかじって著作を続けていた、という論調が支配的であった。しかし、私は、卒論に選んだ頃から、この批判精神に富んだ作者を尊敬していた。
6、如儡子の伝記研究
■野間光辰氏の画期的な研究
●田中伸氏の如儡子伝記研究と相前後して発表された野間光辰氏の研究は画期的なものであった。
○「如儡子系伝攷(上)」 野間光辰 『文学』46巻8号 昭和53年8月
○「如儡子系伝攷(中)」 野間光辰 『文学』46巻12号 昭和53年12月
この野間氏の2論文は、如儡子の伝記研究の上で特筆すべきものである。ただ、この伝記研究は、完結することはなかった。野間氏の御他界によるものである。我々は、(下)を拝読したかった。しかし、それは叶えられないことである。後学は、その完結に努める義務を負う事になった。
■如儡子の伝記研究開始
●野間氏から、上記2論文の抜刷を頂いた私は、氏がその論文の中で、如儡子のおおよその伝記を知りたいと思う読者は「略伝」を読めば十分である。ただし、如儡子に関する、より詳細な伝記に興味を抱く読者は、以下に掲げる諸資料を熟読吟味する事を懇請する、と述べておられた。これは、私に対するメッセージと〔私は〕受け止めた。早速、返信を認め、私は、如儡子に関して非常な興味を抱く一人である。従って、野間先生の提出された、貴重な伝記関係資料を、今後、熟読し、徹底的な吟味を加えたい、と申し上げた。野間先生からはすぐご返事を賜り、そのようにするように、と御許可を頂いた。ここから、私の如儡子伝記研究は始まった。
■私の如儡子伝記研究
@如儡子(斎藤親盛)調査報告(1) 『文学研究』67 号 昭和63年6月
A如儡子(斎藤親盛)調査報告(2) −−父・斎藤筑後と 如儡子出生の地−− 『近世初期文芸』5号 昭和 63年12月
B如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)−−『世臣伝』『相生集』−− 『文学研究』68 号 昭和63年12月
C如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)−−二本松藩諸資料−− 『文学研究』70 号 平成元年12月
D如儡子(斎藤親盛)調査報告(5) −−如儡子の墓所−− 『文学研究』78号 平成5年12月
7、伝記研究の方法
●前掲の私の、如儡子伝記研究を見ても分かるように、全て〔調査報告〕となっている。これには、1つの理由がある。従来の伝記研究は、伝記関係資料を研究者が収集した範囲で、伝記として纏め上げていた。その収集は徹底したものもあるが、やや中途半端なものものもある。勿論、調査・収集は徹底することが理想である。私も、かつて、井関隆子や鹿島則孝や鹿島則文などの略伝を纏める時、同様の方法を採用していた。しかし、これでは、科学として見た時、適切ではない事に気付いた。その反省の上に立って進めたのが、如儡子の伝記研究であり、〔調査報告〕とした所以である。
■明日不所求
●当然の事ながら、人間には寿命がある。これは、作者も研究者も同様である。故に、歴史上の人物の伝記を志しながら、業半ばにして世を去った人々の何と多い事か。私の伝記研究の方法は、この人間存在のアヤウサにも着目して打ち出されたものである。出来得る限り、客観的な事実を把捉したい。しかる後に、1人の人物の伝記の執筆に取り掛かりたい。しかし、我が命は、明日までかも知れない。ならば、まず、命のある限り、事実の収集をしておこう。さすれば、その事実の記録を後人が利用してくれるかも知れない。まかりまちがえば、調査も自分の思った通りに進み、自分で伝記の執筆が出来るかも知れない。
■雪朝庵士峯・武心士峯居士
●これは、斎藤親盛・如儡子の号である。如儡子は、酒田筑後町で、川北奉行・斎藤筑後守盛広の嫡男として生まれた。延宝2年(1674)3月8日に没したが、歳は72歳位であったか。父・盛広は、山形藩主・最上家親に仕えた。親盛も幼少から、主君・家親に側近く仕え、元服の時は、主君の名の一字「親」を賜った程である。
●従来、言われてきた如く、尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人ではない。その心底には、57万石の大大名に近侍した武士としての誇りがあったのである。
●雪深い東北の、酒田の地に生まれ、育った親盛。厳しい寒さの朝、雪は深々と積もる。しかし、武士の子として成長した如儡子は、気高い武士の誇りを身につけ、その頂を目指し、生きていた。
■最上57万石、取り潰し
●最上57万石は、お家騒動にかこつけた徳川幕府の取り潰しに合って、1万石に減らされる。大量の浪人が発生した。後に酒井氏が入ったが、盛広・親盛父子は何故か酒井氏に仕えず、浪人の道を選ぶ。私は、奉行時代の処遇に原因があるのではないかと、1つの資料をつかんでいる。しかし、ここから、如儡子の苦しい浪人生活が始まる。
■酒田・筑後町
●酒田の古地図を見ると、現在の相生町と幸町の辺りにに筑後町がある。この町名は筑後守に縁がある。如儡子は若い頃、諸国を修行して歩き、書写するところの典籍は数百巻に及んだと言われる。また、母方の叔父は羽黒山の警備を担当する掛の責任者でもあった。幼い清三郎(親盛の幼名)の教育には、奉行の父よりも、母の影響が大きかったのではないかとも推測され、おそらく、羽黒山の蔵書も閲覧のチャンスがあったものと思われる。
●如儡子は、成人するまでは、歴とした武家の子として酒田の地に過ごし、学問もきちんと身に付けていたのである。決して聞きかじりの、耳学問ではなかった。
■父・斎藤筑後守
●如儡子の父・斎藤筑後守盛広は越後の出身。祖父・光盛と共に出羽庄内に移り、最上氏に仕えた。義光・家親・義俊の3代に仕え、川北奉行をつとめた。酒田・遊佐・飽海地方には、斎藤筑後の年貢皆済状がかなり多く伝存している。私はこれらを出来得る限り写真に収めて報告した。また、神社などの棟札も貴重な記録である。これも、全て元の形で報告した。これらには、慶長頃の年月日と場所が明瞭に記されている。中には、斎藤筑後の自筆と推測される文書も閲覧する事ができた。如儡子の父は、この日、ここに居た、という証拠である。如儡子は、その盛広の子である。これが、伝記を執筆する時、いかに多くの事を我々に教えてくれることか。
■本貫・越後の調査
●如儡子の祖父・光盛は越後の出であった。戦国の世に、故あって出羽に移った。藤島城代を任せられてもいるので、越後でもそれなりの武将であったものと推測される。おそらく、一族郎党を引き連れて、鼠ケ崎の難所をこえたものと思われる。新発田あたりかと、見当をつけて調べたり、集落全て「斎藤」姓の所にも行って、調べてみたが、現在のところ確たるものに出会っていない。
8、酒田の調査(如儡子出生の地)
■酒田・鶴岡の調査
●如儡子は酒田の筑後町で、酒田城代・斎藤筑後守盛広の嫡男として、慶長8年(1603)の頃生まれた。父・盛広は川北奉行を務めてもいるので、最上川以北の地、飽海・八幡・吹浦・遊佐・・・は調査すべきである。年貢皆済状の所有者、棟札の所在を確認して、バス路線をチェックして、酒田へ行った。
●酒田へ着くと、市で車を出して下さった。酒田市に関連する作者の調査に協力しましょう、という。涙が出そうな配慮である。この折は酒田の研究者田村寛三氏の御教示があった。
●酒田は昭和51年大火災に見舞われ、貴重な歴史上の資料の多くは消失してしまった。しかし、近隣に伝存する諸資料は徐々に収集され、酒田市立図書館や市立資料館、本間美術館等々に保存され、これらの諸資料を調査させて頂いた。しかし、私の基準では、まだまだ、十分とは思っていない。調査は、これからも続く。
■雪の酒田
●酒田・鶴岡・藤島・羽黒、と何度も何度も調査に伺っている。ただ、私としては、大学の夏季休暇を利用しての出張調査であるため、当然、8月・9月が大部分であった。これでは、十分とは言えない。
●色川大吉氏は、その名著『歴史の方法』で、旅行者の目、滞在者の目、定住者の目、という事を指摘しておられる。外来者の目では、外形的把握になる事が多い、とも述べておられる。
●雪深い酒田の地で生まれ、成長した如儡子を知るために、夏の暑い盛りにのみ、調査していては、作者の思いを実感し得ないだろう。しかし、雪の降る時期は大学も卒業行事、入試行事等で、なかなか時間が取れない。忸怩たるものがあったが、平成12年2月23日、ようやく夢が実現した。
●酒田光丘文庫の調査に伺った。勿論、この文庫には、既に何度もお世話になっていたが、この時期は初めてである。閲覧室で調査している時は、掛の方が暖房を入れて下さり、至れり尽くせりである。途中、トイレに立った。流石に、この時期の外気は身にしみる。数日前に降った雪が、屋根や木々の梢には残っている。初めて、如儡子の味わった自然の厳しさに接した思いがして、嬉しかった。さらに、作者に少し近づけたと感じた。その日は駅前の東急インに泊り、翌朝、目がさめると、何と外には雪が降っていた。いそいそと文庫に向かい、文庫の先生と、雪と如儡子の事を話して喜びを伝えた。自然現象も地球温暖化のため、変わってはいるだろうが、それでも、この厳寒の酒田に立って、作者の幼年少年時代を思いやった。
■羽黒山の調査
●平成4年9月、斎藤輝利氏・斎藤弘雄氏・庄司浩士氏等と赤湯で落ち合い、長井市で全員合流、後は車で鶴岡まで走り、羽黒町手向の羽黒山門前の小林坊に5日間宿泊、ここを拠点に羽黒山一帯の調査をした。
●宿坊の朝は、祈祷から始まる。宿泊客全員が本堂に集合して、坊の主、三山神社祝部・小林庸高氏の主導で祈る。毎朝、祈祷の中に、本日の深沢秋男の調査に実りをもたらし給え、と織り込んで下さり、一層、気を引き締めて調査する毎日であった。
●小林庸高氏の御配慮で、最長老にもお会いする事が出来、調査は順調に進んだ。ただし、羽黒山は、明治維新の神仏分離のあおりを受けて、山内にあった300とも言われる寺々はことごとく破棄され、石碑が至る所に転がっていた。焚書坑儒を思い起こし、誠に文化の破壊が残念であった。
●羽黒山の資料は、ごくわずか残存し、多くは、転写などによって、四散した。それらの資料を調査しなければならない。
■戸川安章氏との出会い
●羽黒山の研究では、戸川安章氏の右に出る者は、まず無い、と言ってよいだろう。『羽黒山伏と民間信仰』『修験道と民族』などの名著があり、一部の著作は国会図書館では貴重書になっている。戦前の研究者であろう、と私は決めていた。
●平成4年9月4日、酒田調査の折、鶴岡市立図書館で調査中、司書の秋保良氏に尋ねると、戸川安章氏は鶴岡市内に御健在で執筆活動をしておられるとのこと。私は驚愕と感動で、しばらく頭の整理がつかなかった。暫しして、突然のことで、大変失礼だとは思ったが、御著書の中の羽黒山の記述の根拠についてお教え頂きたく、お電話させて頂いた。
●当時、戸川氏は山形新聞の論説委員をしておられ、現在、急ぎの原稿執筆中で、大多忙ゆえ会う余裕はない、と断られてしまった。明日はいかがでしょうか? 明日もだめです。では、明後日はいかがでしょうか? いや、無理です。5日間までお待ち致します。先生は、とうとう、では、今から来て下さい、と許可して下さった。早速、住所を調べて伺った。同行の斎藤弘雄氏が手土産を用意してくれた。
■戸川安章氏の御研究と羽黒山関係資料
●戸川家に伺うと、書斎で原稿執筆中の氏は、ペンを置いて、応対して下さった。私の希望する資料は、膨大な資料の書庫にあり、今、すぐには出せない、とのこと。それにしても、戸川氏の所蔵する、羽黒山関連の資料は実に貴重である。
●資料の集成に関して、お尋ねすると、地元の出版社が出すと言うので、前の方の原稿を書き、ゲラも出たが頓挫した、と申される。私は、この貴重な資料は何としても出版して、後世に伝えなければならない、と申し上げ、東京の出版社に企画を出す事を提案し、戸川先生も、これをお許し下さった。
●膨大な資料ゆえ、出版も簡単とは思えなかった。斎藤氏とも相談して、山形県の補助も検討することにして、5日間の調査を終え帰宅。早速、全巻の構成などを検討して、知り合いの出版社に交渉する準備を進めた。3日後、戸川氏から速達が届き、この度の計画は中止して欲しい、地元の出版社で進めたい、という事になったとのこと。私としては、どの出版社でも、資料が集成して後世に伝えられれば、それで良い訳である。その後の状況がどうなったか、確認はしていない。
9、二本松の調査(如儡子終焉の地)
■菩提寺・松岡寺(二本松)
●如儡子・斎藤親盛は、福島の二本松の松岡寺に眠っている。昭和63年8月、この菩提寺で斎藤家の御子孫の斎藤輝利氏と初めてお会いした。斎藤氏と友人の渋谷信雄氏の3人で、二本松→米沢→長井→山形→寒河江→鶴岡→酒田、と白のセルシオで日本列島を横断した。出羽三山の山脈を走破した。斎藤氏は長井市で金型の会社を経営していて、先祖が酒田の奉行であった事を誇りとしておられる。その奉行の子の親盛を研究している私に、大変な協力をして下さっている。白のセルシオを、武将・盛広のまたがる白馬に見立てておられる。
■松岡寺の過去帳
●如儡子は、酒田に生まれ、18歳頃までは奉行の子として、成長したが、この青年期に主君最上家が取り潰しに会い、浪人となる。一時、祖父の出身地の越後に行くが、やがて江戸へ出て、苦しい生活を続けた。晩年、子の秋盛が二本松の丹羽家に召抱えられ、一家は二本松へ移住する。
●従って、如儡子の伝記の根本は、酒田・鶴岡・藤島等の山形と、晩年の15年間程を過ごして没して葬られた、松岡寺のある福島の二本松にある。
●松岡寺には、第2世湛宗祖海禅師の編した『松岡寺過去帳』が現存する。誠に貴重な存在である。如儡子の項には、次の如く記されている。
「八日/武心士峯居士/延宝二甲寅三月/俗名斎藤以伝」
形式は、やはり祀堂帳形式である。松岡寺には、この他に、第4世震宗水編のものと、満願寺第16世大隈正光氏編の3点があり、現在は、松岡寺は平素無住で、福島市満願寺の大隈氏が保管されている。
■松岡寺の斎藤家墓所(第1次改葬)
●松岡寺の墓所は、本堂に向かって左手にある。墓地に登って行くと、入ってすぐ右手の花沢家のお墓があり、その奥に斎藤家の墓地がある。お墓に向かって右手に観音堂があり、左隣には、手前に高橋家、その奥に阿部家がある。つまり、斎藤家は2軒分に近い、広い墓地である。何故、このように広いのであろうか。
●斎藤家の墓地は、昭和44年、12代・源覇が没した時、先祖代々の墓石44基を整理して改葬したという。その時、44基の墓石は白布に包み、墓の中に埋めたと、現在の当主・輝利氏は仰る。如儡子の伝記を研究する私は、その埋められた墓石を是非とも見てみたいと切望した。間口は、4メートル55センチ、奥行きは8メートル22センチである。墓石はどのように埋められているのであろうか。
■墓石の位置の疑問点
●斎藤家の墓石は、第1次改葬以前は44基あり、当然のことながら、墓石は周囲に並んでいた。しかし、墓所の左右中央で、奥行きは中央よりやや奥に、一段と大きな墓石があり、これが最も古いもので、斎藤家では、「お姫様のお墓」と言い伝えてきたとの事である。現在の当主・輝利氏は、これが如儡子の母(東禅寺氏)の墓ではないかと推測しておられる。
●それにしても、お墓の中央で、やや奥に建てられている、この墓石の位置は、いかにも不自然である。推測するに、斎藤家の墓は、最初の奥行きはこの母の墓石の所までであり、その後、その奥の山を切り拓いて拡張したため、母の墓石がこの位置に残されたのではないか、と思われる。
●おそらく、二本松に移住した如儡子は、妻あるいは娘の他界に直面し、創建間もない松岡寺を菩提寺に定め、すでに江戸在住中に他界していた、母を供養し、大きな墓石を、左右中央の一番奥に建てたのではないかと思われる。
■墓所の大改葬(第2次)
●平成4年、斎藤輝利氏から、墓所を全面的に掘り起こすので、立ち会ってもらいたい、という連絡をもらった。私は涙が出るほど感激した。3月27日、長井市から大勢の人が来て、墓所の全面的な発掘作業が開始された。私も同じホテルに泊まって立ち会い、逐一写真に記録した。改葬は5月10日にほぼ完了した。
●発掘されたお骨は、新しい骨壷に納め本堂に安置して供養した。墓石は、全て水で洗い清め、石の種類別に分類して調査したが、軟質の墓石は表面が削りとられ、硬質の墓石は細かく破砕されていた。残された刻字から推測できたのは、3名に過ぎなかった。墓石全体を見ても、44基を埋葬したとはとても思えない。昭和44年に改葬した業者に連絡しても、来てはくれなかった。昭和44年の改葬の時、私も立ち会っていたら、こんな結果にはならなかったであろう。悔やまれてならない。
●先祖代々の骨壷は本堂で供養され、墓石は洗い清められ、斎藤家一族の方々の写した写経と共に、再び墓域内に埋葬された。
●私は一部始終の作業に立会い、記録し写真を撮った。密かに、墓石の破片の1つをもらい、如儡子の伝記研究をしている机の上に置きたい、と思った。しかし、それは、伝記研究を志す者の態度としては不遜であると反省し、思い止まった。
■改葬完了と法要
●平成4年の墓所改葬は7月30日、松岡寺住職、満願寺第16世・大隈正光氏を招いて大法要が行われた。
●完成した墓所は、正面奥に大きな供養塔があり、その右に先祖代々の墓石、左には小さな供養塔と、12代・源覇の墓石がある。また、向かって左側には、奥に「墓誌」があり、初代・斎藤玄蕃助藤原光盛之霊位から十二代・長光院本源道徹居士までの各代々の法名・没日等が刻されている。その手前には、2枚の大きな江持石に斎藤家の略伝が刻まれている。
●奥の方には「斎藤家伝略」として、
「平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大学深沢秋男氏の調査により祖先の活躍が明らかにされた。祖先の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。・・・」
とあり、手前の碑には「それからの斎藤家」として、近代の経過と参考文献が列記されている。改葬後の斎藤家の墓は実に立派な墓となった。今は、松岡寺の中でも、一段と目立ち、見学に訪れる人もあると聞く。
■三百年大法要
●松岡寺開山・太嶽祖清禅師は、元禄7年の没で、その300年遠忌が平成5年6月6日、県内外の僧侶38名を拝請し、檀家の人々も多数参列して執り行われた。斎藤家の当主輝利氏ご夫妻と共に私も招待されて参列させて頂いた。
●また、この折、二本松歴史研究会の要請で、斎藤親盛・如儡子について講演をした。会場には50名以上の方々が集まり、熱心に質問もして下さった。
■二本松歴史研究会
●二本松には歴史研究会があり、古地図の復元や貴重な資料を入手できたり、漆間氏、紺野氏をはじめ、多くの方々のアドバイスを頂いた。丹羽藩主に関しては『世臣伝』という貴重な史料があり、大鐘義鳴の労作『相生集』が大変な事を教えてくれた。漆間瑞雄氏の研究など、地方史研究の成果は、謙虚に活用させて頂く必要がある。
●大鐘義鳴は、『可笑記』の写本(おそらく如儡子の自筆であろう)を閲覧しているらしいし、斎藤玄覇は、関連資料をある方に預けた、とも伝えられている。これらの資料が、今後出てくる可能性は、決して低いものではない。このような、状況では、伝記は書けないだろう。
■『二本松藩新規召抱帳』『二本松寺院物語』
●前者は、史家・紺野庫治氏所蔵の貴重なもの。これによって、如儡子が江戸から二本松へ移住した年が確定できる。他の2次史料では誤りを生じる。資料批判なしに記録を使うと、誤りの伝記を後世に伝えてしまう。
●伝記研究には、お墓が大変に役立つ。その点、平島郡三郎氏の名著『二本松寺院物語』は実に有難い研究である。後学の我々は、その労苦に感謝せずに使用することは許されない。
■「斎藤家略伝」「それからの斎藤家」
●松岡寺の斎藤家の墓所は、前述の如く、昭和44年と、平成4年の2回改葬されている。第2回目の時、斎藤家墓誌が建てられた。須賀川産出の江持石に刻まれている。撰文は、13代当主・輝利氏によるものである。
■「斎藤家略伝」
「斎藤家伝略
平成四年七月山形県長井市ままの上一四八四に十三代輝利在し、墓地改装する。京都大学野間光辰氏及び昭和女子大深沢秋男氏/の調査により先祖の活躍が明らかにされた。先祖の供養と御活躍を子孫に伝えるべくこの碑を造った。家伝によれば我が家は斎藤別当実盛公/の子孫で平重盛公と大変仲が良かったと言う。奈良原春作氏作斎藤別当実盛伝「さきたま出版会」の中で、前九年の役で阿部頼時が反乱した/際に祖先の実遠公が源頼義公八幡太郎義家公親子に従臣して活躍した文章がある。奥羽平定の際食糧を確保する為、山形県長井市の河/井地区に三年在して食糧を溜めて戦勝に導いたという。現在その長井に住しているのは、祖先の遺徳か。その後康平五年(一〇六二年)実遠公以/来武蔵長井庄に住するのである。当家は源平の乱に父と共に戦に破れ負傷して越後に落ちのびた実盛公の長男の子孫と伝えられている。
出羽国、庄内地方での祖先
遠祖玄蕃助光盛は越後の国より二十六騎を従えて庄内に来たと言う。大宝寺義氏の縁者を娶って藤島の城をまかされていたのだろう。/しかし、光盛は年三十三才で戦死している。その子盛広は前森筑前守東禅寺右馬助勝正兄弟一族に育てられている。おそらく年令的にも近く兄/弟の付き合いをしていたと察せられる。前森筑前守は羽黒山の別当だったという。東禅寺正勝は大山「鶴岡」城主でその二人に妹がいた。その妹が盛広の/妻であり親盛の母である。詳細は二本松藩で編集した「世臣伝」の巻八下に記してあり野間光辰氏深沢秋男氏の研究で明らかにされている。庄内時代/盛広は最上家に仕え、亀ケ崎城の城代家老を務めた。慶長年間(一五六一年)頃である。現在の酒田の上日枝神社は城内に祭ってあったという。/その縁で現在の酒田祭の毎年五月二十日には招待され、当家も斎藤家の守り神として深く信仰している。尚、酒田の町に筑後町として残っているが、祖先が住んだ屋敷跡を呼んだという。
斎藤家と東禅寺家
後年親盛が儒教、仏教、老子の三教を解説した本が、「百八町記」である。母は親盛に教育熱心だった。伯父の羽黒山別当前森筑前守により/神、仏にいたる資料が身近にあり、又、母が体得した教養が親盛に流れている。天正十六年(一五八九年)最上家に属した前森筑前守、東/禅寺右馬頭勝正兄弟とその一門は今の鶴岡にある十五里原合戦で、上杉勢と戦って戦死した大山の古戦場には戦死せし人千八百余柱/とある。血筋が続いているのは我が一族だけである。大山の古戦場を東禅寺塚と名付けて祖先、盟友の供養を代々せねばならない。
二本松の祖先
親盛が二本松に来たのはその子秋盛が丹羽家に仕えたからである。その子富盛は傑出して禄増され二百石、二本松時代の礎を築いた。/その後、代々御用人、郡山代官、金銀払出奉行等の要職を務め、明治維新後は三春に移り住んだ。長井に移住するまでの本籍は三春町/荒町十番となっていた。毎年初午に当家でお祭りしている初午祭は、二本松時代、祖先が夢に竹駒神社のお使いが、伏見稲荷の帰り産気づき/姉の方を置いて行くので祀って呉れとのお告げを受け、河原に行くとその通りだったので、屋敷(現在の安達高校の裏の竹林)に飼っていたが、い/つの間にか居なくなったと言う。その後代々初午祭をしている。」
■「それからの斎藤家」
「父源覇(十二代)、東京に住む。戦後の混乱を避けて、当時五反田に在った金型製造の大崎製作所の長井工場に工場長として赴/任して定住した。その後工場は閉鎖され家族は長井に残り苦労の末に南陽市の川崎電気の外注となり本業に戻る。
昭和三十八年、長井市本町の黒沢和助氏の援助で、ままの上に金型工場を作り、昭和四十四年病にて没した。その子輝利、父の意志を/継ぎ、黒沢和助氏の長子和男氏の協力を得て、成田工場を開設現在に至った。
輝利、父源覇亡き後、妻と共に母みさを中心に家族の団結を計る。次弟の弘雄は家業を手伝い、三弟の惣逸は須賀川に/て同商売のフジ精工を起し、妹敬子は南陽市の竹田家に嫁ぎ、末妹恵美子は長井市の工藤家に嫁ぐ。本来三男になるべく/生まれた俊洋は三才で夭折し、長女に生まれた千代子は生後間もなく世を辞した。世の常ならざることを知りつつもむべなるかな。
二本松の墓地は昭和四十五年に最初の工事を完了したが、その後縁あって須賀川に移り住んだ弟惣逸の紹介で庄司浩士師のご指導/を仰ぎ今回の完成をみるに至った。また、完成に当っては、石は須賀川東部の江持石をふんだんに使用することが出来、墓石の製造建/立には叔父高橋清氏が誠心誠意当ってくださるなど、縁ある方々の温い後援を頂戴いたし、心よりの供養が出来ることを感謝するも/のである。
斎藤家にまつわる出版物
奥羽軍記ー山形県史 庄内時代
斎藤別当実盛伝 さきたま出版会 奈良原春作氏
世臣伝 二本松図書館
二本松寺院物語 平島郡三郎著
可笑記大成 田中伸 深沢秋男 小川武彦 笠間書院 昭和四十九年四月発行
如儡子系伝▲ 野間光辰 文学 岩波書店 上中 昭和五十三年八月 同十二月発行
如儡子(斎藤親盛)調査報告 深沢秋男 文学研究 第六十七号 昭和六十三年六月
続酒田ききあるき 田村寛三著」
■おわりに(今後の課題と計画)
●藤島・鶴岡の調査
●佐倉の調査
●二本松、漆間家の調査
●江戸在住の頃の如儡子(作品から)
◎『百人一首』注釈の研究
◎『百八町記』の研究
◎『可笑記』の総合的研究
● 『斎藤親盛(如儡子)の研究』の出版
A、 『可笑記』と儒教思想
深沢 秋男
この作品が主として儒教的教義に立脚して書かれているということは,水谷不倒氏以来諸家の指摘するところであり,あえてここで取り上げる必要もないのであるが,しかしそれらの大部分は概説の域を出るものではなかった。このような中にあって,昭和二十九年三月号の『国語国文』誌上における寺谷隆氏の「仮名草紙に於ける庶民教化の一断面」と題する一文は,作品に即して具体的に論を進めているという点において,またそこに示されたものが,従来のそれとかなり異なる意見の提示である,というこの二つの点においてこれを避けることはできない。そこで私はこの論文との係わりにおいてこの作品と儒教思想との関連について考えてみたいと思う。
寺谷氏はまず,巻三の37を取り上げて「『可笑記』は仁義を規定して「仁とは慈悲ある事、義とは義理をたつる事」であると言う。(巻六の十二)然し作者が此処で戒めて居るのは吝嗇と無情な態度に過ぎず、敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」といっている。このことはこの段に限るならば妥当であるとも思えるのであり,そしてさらに「仁義の勇者血気の勇者」についての一段(五の76)における仁義が,戦国時代から受け継がれた主従関係を中核とする生活の道義性としての仁義であることも明らかであるが,問題なのは,このような段のみをとらえて『可笑記』の仁義規定を評価してしまっていることである。この作品において仁義は単にこのような面からのみとらえられてはいない。
たとえば巻二の36では,大名が鷹の餌のために多くの犬を殺す現実を見て「しかるをめたところさん事何かよからん、人はたゞかりそめにも、じひありたき事也。」と批判し,さらに巻五の75では「むかしさる人の云るはそれ万の物を、かはゆく思ひ、てうあいせんにも段々次第あるべし。先父母をはじめ、主君妻子兄弟親類他人畜類鳥類虫のたぐひ、草木まてをも、のこす事あるへからず。先父母をいとおしく愛して、其あまりをもつて、主君をいとおしく愛し」といっているが,このように博く人物を慈愛するという意見は,この他にも作中かなり色濃く反映しているのであり,さらにここで見のがしてならないのは,その愛にも段々次第があるとして,まず父母を愛し,その余りをもって主君を愛すべきだといっていることである。ここでは明らかに,主君よりも父母,つまり忠よりも孝が優先しているのであり,これはあくまで忠優先を主張する日本特有の思想と対立するものであり,そしてこれが,儒教的思想であることはこれまたいうに及ばないと思われる。また巻五の56では慈悲を施すにも時と場と相手によるという相対的な考えを提出し「おそれながら、此こゝろを、おしひろめて、じひの御がつてんまいり候はゞ、天下国家を、おさめ給はん、大慈大悲も、御あやまり、有べからず。」と結んでいるのであるが,この作品において慈悲は常に治める者に対して説かれているのであり,これは仁が常に君子に対して説かれることの強い儒教と決して無関係ではないと思う。
また作者は「義理をたつる」とは,主君において,まず無欲であり,善き臣下を用い,似合い似合いの役を与え,直なる法度を定めることである(三の41)としているが,ここで注意されることは,仁義をいう場合「(主君が)よくしんふかく、仁義をしり給はねば、又下々もよくふかく、仁義をしらず」(三の8)のように常にそれと並列して無欲でなければならぬことを説いている(二の34・三の4・39・四の16・五の51・89)ことである。これは「子◇言利。与命与仁」(『論語』子◇篇)あるいは「孟子対曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。」(『孟子』梁恵王・上)などの孔孟のことばでも解るように,儒教においてもかなり一貫したものであり,この両者の共通性は「されば孟子にも、仁者は富まずと見えたり」(一の35)のように儒教典籍に拠ったところのことば(二の43・三の8・12・四の10・16・五の53など)が,単に語句の引用や故事の紹介の域にとどまらないことの証左になるものと思われる。このようにみてくると『可笑記』における仁義は,「敢へて儒教道徳の強調とは言ひ難い。」一面があるにしても,かなり儒教的要素を含んだものといわなければならない。
さらに寺谷氏は続けて「又『可笑記』は度々天道を論じて居るが(巻一の二十)その天道観は夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰と余り距って居らぬ。」といっているのであるが,このこともまた作品全体に散見する作者の天道についての意見を合わせみるとき,そういい去ることはできない。
巻一の20において作者は「不行儀沙汰のかぎり」をした者は「御家めつばうあやう」いのであるという。これは無道の行いをした者は必ず天罰を蒙る時がくる,そしてそれは天道の働きである,とみる戦国武士間にみられる天道観と同じ発想をもつものといえる。しかし『可笑記』はさらに続けては,その不道の主君をそのまま是認することなく,臣は君をして善に赴かせるように分別すべきだと力説するのである。これは栄枯盛衰を以て天道のならわしとし,したがって世に栄えているものは天道にかなったものであるとしたところの戦国武士の天道観とはかなりずれてきており,それを道徳的なものとしてみている点において儒教の影響が認められる。また大将が国を攻め取ることについての段(二の19)においては「無理なるかせんをくはだて給ふべからず」ではあるが,ただ相手が天命に背く場合は別であるといい,国を攻め取るのは「其国郡の万民うれへかなしみめいはくするところを、やすんぜんがため」でなければならないという。この意見は敵を打ち破るに手段を選ばず,自分の領地を拡大し,自らの欲望のみを遂げようとした戦国武士のそれから大きく展開したものであり,そしてこれが『孟子』の「文王一怒而安天下之民。」(梁恵王・下),「其子之賢不肖、皆天也。非人之所能為也。莫之為而為者天也。莫之致而至者命也。」(万章・上),「王曰、無畏。寧爾也。非敵百姓也。若崩厥角稽首。征之為言正也。」(尽心・下)などの思想に裏付けられていることは「周の文王殷の紂王をせめほろぼし給ふためしあるをや。」といっているのでも解ることである。巻四の1は学問についての一段であるが,物を知ることは,人の道を行うためであり,その根本は天道である。故に聖人はその天道を解明してそれを万民に教えなければならない,といっている。これは「天道に恵まれ奉る」ことは聖人の道に通ずるものである,といっている(一の27)のとともに天の道,人の道は共通のものであるとする立場からの発言であり,天人合一を説く儒教思想(朱子,孟子など)に通じるものといえる。
さらに『礼記』のことばに拠っているもの(四の10),仁義礼智信の五常と天道は通じるものであるという考え(四の27)などを考え合わせるとき,儒仏並列の場から天道をとらえている(一の12・27など)というすっきりしない面があるにせよ,その他にみられる天道(一の3・8・41・43・三の5・21・22・35・四の16・47・五の13など)も儒教思想と無関係であるとは思われないのである。『可笑記』における天道説は決して「夙に武士階級に存して居た絶対者としての天道信仰」のみではなく,むしろその立場はいずれかというならば儒教的であると断じてよいと思われる。
しかし寺谷氏はさらに主従観と項を改めてこの作品が反儒教的であることを強調するのである。巻二の18における作者の主従観をまず指摘し,さらに続けて「如儡子によれば、主従関係とは「君のきみたらざる時は臣のしんたるものなし」(巻三)「重賞の家には死夫あ」り(同上)であって武士の奉公とは所詮「家名と老後のたのしみ」の為に帰着する。…中略…『可笑記』の主従観は例へ著者がどれ程儒教的扮飾を施しても、恩賞を主従関係の基礎に置く事によって、近世封建社会の下にあっては、甚だ反社会的な性質を有して居たと言はねばならぬ。」と結論づけている。そしてこれに関しては松田修氏も『文学』昭和三十八年五月号において言及し「『可笑記』を支える基本的理念は、さまざまの留保条件をつけても、やはり儒教ないし儒教的、最小限漢学的性格を示している。その主従観を以て、反儒教的と全巻を決することには、にわかに従いがたい。」といってはいるが結局は寺谷氏の見解の域を出ていない。
さて巻二の18であるが,ここで説く家臣の心境は確かに主君に対する態度についての作者の発言ではあろう。しかしそれは「主君おほくはみ内の者共に、蚊のまなこほどの恩賞もあたへ給はず、あはのさね程のなさけをもかけ給はず、やゝもすれば、無理ひがごとのみしげくいひかけてめいはくさせ給ふ」という事実を前提としてのそれであり、決して家臣は主君に対してこのような心得で仕えてよいといっているのではない。いわば不道の主君に対する家臣の態度の一つをあげているにすぎない。また『可笑記』の主従観において「君のきみたらざる時は、臣のしんたるもなし」(三の41)は常に一貫したものであり(一の28・32・二の43など),そして「重賞の家には死夫あり」(三の2)もその一端を補うものであることは間違いない。しかしだからといって、これらをただちに戦国時代的主従観であると断定し,故に反儒教的なのだと結論づけることは妥当と思われない。
「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」ということばにかける作者の意図は「君が君なら臣も臣でよいのだ」にあるのではなく,あくまでも「臣が臣であるためにはまず君が君たらねばならない」というところにこそあったのである。だからこそ主君に対して徹底的にその道徳的責任を求めているのである。このように主君は常に正しくなければならないとし,あるいは主君を善に導かなければならないとする態度は作中一貫するものであり,我欲をとげるためには、いかなる手段も選ばず争い合った戦国武士の間にこのような見解が見出し得るであろうか。私はここに治められる者よりも治める者に対して説くことの強い,そして仁政思想の影響をみてとるのである。因みにこの「君のきみたらざる時は臣のしんたるもなし」は「孟子曰、君仁莫不仁、君義莫不義。」(『孟子』離婁・下)をはじめとして『孟子』あるいは『論語』中に散見するこの種のことばに拠っていることはいうまでもない。また「香餌のもとには懸魚あり、重賞の家には死夫ありと、申つたへぬ」は「香餌之下有死魚、似重禄之下有死士也」という『六韜』の文韜第一にその典拠を求め得るが,これをとらえて寺谷氏は「恩の反対給付に依存して居た」戦国武士の主従観と断定するのであるが,この解釈は作品全体からみるとき,適切なものではないと思われる。巻五の51で「おんよりも情の主と云事は、仁義にたつせし侍の事、但情は、質にをかれぬとして、恩賞を望む、侍こそおほけれ」といって,その無欲でなければならぬを説いていることを,さらに仁義を重んじ無欲でなければならないと力説するのがこの作品の基調であること等を考え合わせる時「重賞の家には死夫あり」の用語例を以て戦国時代の武士の主従観に直結することはやや無理なものとなってくる。また作者は恩賞を適度に与えるようにと説いてはいるが,決してそれを主従関係の基礎に置いてはいない(二の18・五の1など)。『可笑記』の主従観は,よしそこに戦国的な要素が介在するにしても,それは現実の主従関係そのものが戦国時代的なものを少なからず踏襲していたことを考えるとき,あるいは当然のことといえるのであり,概していうならば,禄を与える者と受ける者との関係にある現実の主従関係を肯定し,さらにそれを儒教的立場から説こうとした(一の28・二の34・42・三の8・30・41・四の14・五の7・30・35・41・43など)ものであるということができる。また儒教的主従観と武士本来の主従観は本質的には決して同じものではないが,初期三代,家康・秀忠・家光と徳川政権安定を目ざす,改易,転封などの大名統制が頻繁に行われ,反面その所産として生まれる多くの浪人に苦しまなければならなかったところの歴史的現実においては,かかる儒教的主従観がそれほど抵抗なく受け入れられたものと思われる。
以上二,三の項目を中心にみてきたのであるが,その他にも儒教思想と関連のあるものは少なくないのであり(一の15・二の40・三の24・四の25・五の67など多数),要するに作品全体に流れる思想は単に戦国武士のそれからでもなければ,まして反儒教的でないことはいうまでもない。そしてそれは,主君は常に百姓町人を保護しなければならないと主張しはするが,所詮「侍がとみさかへぬれば、百姓かならずゆたかにさかへ」る(三の1)というように,あくまで武士を最上段に置くという,当時の武士の現実から把握されたところの儒教であったのであり,そこには当然武士と儒教を結びつけようとする一面もあったのである(四の16)。そしてこの間の事情は作品みずからが説明している。すなわち「四書七書、かながきの養生論、つれつれ甲陽軍鑑、すゞりれうしの類置たるもよし」(三の23)「家にありたき物はよまずとも四書七書、法語、和漢の集」(五の63)といい,巻四の43・五の79では『太平記』を読むようにとすすめている。これらのことばからも解るように,儒教および儒教的典籍は作中『史記』『十八史略』『礼記』『春秋』『毛詩』『周易』『戦国策』,それに「七書」等かなり広範囲にわたるようではあるが,やはり「四書」それも『孟子』『論語』がその主たるものと思われる。また『太平記』『甲陽軍鑑』の世界をよきものとして肯定していることは,戦国時代からの武士気質を多少なりとも体験として受けとめていたと思われる作者であってみれば,自然のものと思えるが,さらにこの二書のいずれもが単に軍記物や軍学の書ではなく,そこに少なからず儒教的要素が介在していたという点において一層納得のゆくものとなるのである。
しかしさらにここで注意すべきことは,これらの儒教あるいは儒教的な書物とともに「法語」をそこに連ねていることである。この作品において仏教思想は一見ことごとく難じ去られているかの感があるが,しかしそれらを子細にながめてゆくと,実利的,物質的意識がたかまり,仏教本来の意味からすれば著しく堕落したところの現実の仏教は激烈な批判を加えられながらも(一の29・四の11・36・五の10,特に五の4・8・24など)なお釈尊はその尊さを作者に対して維持していたのであり(三の16など),さらに儒仏双方が互に難じ合うのを指摘して無用な論争だとし,各々自分の道を究明すべきだと批判するのである(四の5,他に一の35・四の40・五の17)。また「儒者仏者」「儒道仏道」等のように儒仏を並列的にあつかった語句はなかば慣習的かとさえ思えるくらい作中一貫して使われており(一の35・二の44・三の4・四の40・五の37など多数),さらに儒教を現世的なものとし、仏教を来世的なものとみる傾向もあったのであり(五の17)これらのことごとを考え合わせるとき,後年に『百八町記』を著し仏教に帰依したと思われる作者の心的推移も決して不自然なものでなかったことに気づくのである。そして頴原退蔵氏が古く指摘した(『国語国文』昭和七年十二月号)ように『百八町記』の三教一致の思想は,すでに『可笑記』の中に芽ばえていたということができよう。なお『百八町記』の儒釈道の三教一致思想は,一名『儒仏二教/水波問答』と題したものがあるのをみても解るように,その中心は儒仏二教にあるとされているが,このことは『可笑記』においても同様であり,老荘思想はきわめて希薄である(三の17・四の15・五の8)。
要するにこの作品には,作者自身の体験から得たであろうところの当時の武士の思想と,そして勿論それと無関係ではなかろうが,もう一つこの仏教的要素が包含されているのである。しかしその中心となるものはあくまでも,新しい知識としての儒教思想であったということができる。また作者は儒教をかなり知識的,学問的に受けとめていたのであり,したがってこれに決して盲従してはいない。このことは近世初頭の儒者,羅山などが時として狂信的態度を示していたのと対照的であり,このいってみれば科学的,それだけに自由な態度,これこそこの作品の一つの重要な特色になっていると思われる。
(『文学研究』第19号,昭和39年5月)
B 、斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)
深沢 秋男
一,は じ め に
斎藤親盛(如儡子)の俳諧について最初に言及したのは,田中伸氏である。田中氏は,「如儡子の注釈とその意義」の末尾に補注として,次の如く記しておられる。
「斎藤親盛は寛文始め頃から延宝の初めまで俳人として活躍をしている。さきの『桜川』(四十句)を始め、同じ風虎編の『夜の錦』(七句)、松江重頼編の『佐夜中山集』(二句)、松江維舟(重頼)編の『時勢粧』(五句)、北村季吟編の『続連珠』(一句)などに入句が見られる。特に『時勢粧』には、同じ二本松の斎藤友我と両吟百韻を寛文五年の十一月に興行し、折から松島まで赴き帰洛の途にあった維舟の点を付して掲載されている。それらの句を見ると、『可笑記』に見られた激しい世相批判とは変って、俳諧に楽しんでいる平穏な晩年がしのばれるのである。そしてその俳諧の師は松江維舟であった。当時の俳人としては古典の教養を必要とし、本論にとり上げた『百人一首鈔』などもその一翼をになうものであったと見ることが出来るのである。」
これを受けて,野間光辰氏が少し具体的に整理しておられる。
「……俳諧は、二本松に在住するようになってから、同藩の松江維舟門の好子江口塵言・水野林元・斎藤友我・同如酔・小沢衆下・長岡道高等に誘われて入ったようで、晩学にしては出精の甲斐あって、相当の成績を挙げている。前にも記したことであるが、これは田中伸氏の指摘によって気づいたことで、田中氏は前引「百人一首鈔と酔玉集」なる論文の補注として要点だけを挙げて居られる。今ここには、入集俳書の年代に従ってその句数を示し、若干の作例を挙げる。
寛文四年
重頼撰『佐夜中山集』 発句二
寛文六年
風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』ニ抄出) 発句七
寛文十二年
風虎撰『桜川』 発句三七(句引四〇)
維舟撰『今様姿』 発句五/両吟百韻一(句引四)
延宝三年
重安撰『糸屑集』 発句一
延宝四年
季吟撰『続連珠』 発句一(句引四)
○花の兄やこれも接木のだいがはり
○田舎にて花の都や和哥の友
右の二句、『佐夜中山集』巻一追加に入集、二本松住斎藤親盛の作の俳書に見える最初である。「田舎にて」の発句は、これは、東北の田舎にあって恰も花の都にある如き思いをする、偏に塵言・林元・友我等の風雅の友を得たるためである、という意を寓したものであろう。『中山集』の巻一より巻五までは、寛文四年九月二十六日付重頼奥書を添えて板行せられているが、翌五年重頼は維舟と号を改め、同年四月三日東行の途に着いている。その行程は、寛文十二年三月の跋ある『今様姿』所収の発句詞書に詳しい。まず京より木曽路を経て一旦江戸に出で、それより奥へと志して日光に参詣し、白河の関を越えて、二本松城下に入ったのはその七月であった。二本松には前後十数日滞在して、塵言・林元等の独吟百韻に引点し、また彼等の外に、道高・友我等を加えた四吟・五吟の百韻をも興行している。如儡子が維舟に師事したのはこの時であって、後年板行せられた『今様姿』に入集の発句も、またこの頃の作であったに相違ない。そして維舟が末松山・松島の名所一見に旅立った後、十一月十日に同姓友我と「何霜百韻」一巻を両吟して、師走上旬江戸を経由帰京した師の許に送って点を乞うている。
寛文五年霜月十日
何 □
出立は足もとよりぞ鷹の鳥 親 盛
是は夜の間か雪の道筋 友 我
遠山も花咲たりと聞付て 〃
永/\し日もあかぬ野心 盛
ひたぶるに猫は妻をし呼廻 〃
やねも戸びらも春めきにけり 我
朧げの月を見廻す庭の景 〃
酒のむしろにしくは御座らぬ 盛
(下略)
付墨 五十句
此内 長十五
斎藤親盛 点廿四 内長八
斎藤友我 点廿六 内長七 (第四下)
百韻はこの一巻の外は見当らぬ。発句は諸書の句引合計六十九句、内重複分を差引けば五十八句となるが、『桜川』の如く入集句の実数と誤差あり、また『続連珠』の如く伝本いずれも零本なるため、入集句の全部を確かめ得なかったものもあり、結局において、今日判明しているのは五十四句である。例によって、維舟流の、古歌・詩文・諷・小歌・舞・狂言等の詞を裁ち入れた句が殆どであるが、只句の作にむしろ作者の生活を窺い得るものがある。
○老人や子に伏寅に置火燵 」
田中伸氏・野間光辰氏の研究は以上の如くである。両先学の調査を参照し,さらに,今栄蔵氏の『貞門談林俳人大観』を利用させて頂いて調査した結果を整理すると以下の通りである。
二,斎藤親盛の俳諧作品
1,松江重頼撰『佐夜中山集』 寛文四年
佐夜中山集巻之一
追加春
1 花の兄やこれも接木のたいかはり 斎藤親盛
2 田舎にて花の都や和哥の友 斎藤親盛
2,内藤風虎撰『夜の錦』(『詞林金玉集』抄出)寛文六年
巻一 春一
1 夜錦 万代をかけて祝ふやおめて鯛 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻二 春二
2 中山 花の兄や是も接木のたいかはり 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻三 春三
3 同集 あけぬるや雲のいつこにいかのほり 親盛/奥州二
(夜錦) 本松/斎藤氏
巻四 春四
4 中山 田舎にて花の都や和歌の友 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻八 夏二
5 夜錦 夏引の手挽にするは麦粉かな 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻十一 秋二
6 夜錦 虚空より鉄花をふらす花火哉 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻十二 秋三
7 夜錦 塩くみやふりさけ見れは桶の月 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻十三 秋四
8 同集 金柑やけに色にそみ皮にめて 親盛/奥州二
(夜錦) 本松/斎藤氏
巻十四 冬一
9 夜錦 風ふけはをきつしらかに綿帽子 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻十五 冬二
10 時世 出立は足もとよりそ鷹の鳥 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
巻十五 冬二
11 時世 たかや又生るを放つぬくめ鳥 親盛/奥州二
本松/斎藤氏
作者句引
二本松之住
江口氏/塵言 春九句 夏三句 秋十句 冬四句 〆二十六句
水野氏/林元 春九句 夏四句 秋五句 冬六句 〆二十四句
日野氏/好元 春七句 夏五句 秋六句 冬三句 〆二十一句
長岡氏/道高 春七句 夏六句 秋三句 冬三句 〆十九句
斎藤氏/親盛 春四句 夏一句 秋三句 冬三句 〆十一句
同 氏/友我 夏二句 秋四句 冬一句 〆七句
小沢氏/衆下 春二句 夏二句 冬二句 〆六句
不破氏/一興 春三句 冬二句 〆五句
中井氏/正成 春一句 夏二句 秋二句 〆五句
奥田氏/方格 春二句 夏一句 秋一句 〆四句
斎藤氏/如酔 春二句 夏一句 〆三句
小川氏/可著 春一句 夏一句 秋一句 冬一句 〆四句
須藤氏/之也 春一句 夏一句 秋一句 〆三句
寺田氏/寒松 夏二句 秋一句 〆三句
今村氏/林昌 春一句 秋一句 〆二句
正秀 春一句 古市氏/正信 夏一句
古硯 春一句 小池氏/又笑 夏一句
佐藤氏/幸之 夏一句 秀伝 秋一句
白岩氏/人任 夏一句 伴 氏/人似 冬一句
安保氏/一実 夏一句 土屋氏/有房 夏一句
豊田氏/政氏 冬一句 下河辺氏/□□ 春一句
釈 氏/知蔵司 秋一句 釈 氏/随言 秋一句
3,内藤風虎撰『桜川』 寛文十二年
春 一
1 お流れや二つ瓶子に三つの春 斎藤親盛
2 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼 斎藤親盛
卯杖
3 いはふとて朝に杖つく卯の日哉 斎藤親盛
4 はま弓やひかりさしそふいはひ月 斎藤親盛
5 笠鉾やかけ奉るひたち帯 斎藤親盛
6 札押やみな身の祈祷二月堂 斎藤親盛
7 をく露や声にちほく・いもかへる 斎藤親盛
8 栢の木に巣こもりやする碁石鳥 斎藤親盛
春 二
9 秋もあれと松の海辺菊池の里 斎藤親盛
10 うとの朱うはふ防風や膾のこ 斎藤親盛
菫
11 武さし野は本むらさきの菫かな 斎藤親盛
12 けかれぬや蒜慈悲の高野山 斎藤親盛
13 わらはへもあしたをまつやとり合せ 斎藤親盛
夏 一
灌 仏
14 あかなくにまたき生湯や如来肌 斎藤親盛
15 いちこもやまいたるつるはいはら垣 斎藤親盛
16 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉 斎藤親盛
17 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし 斎藤親盛
夏 二
18 山復山みねより出てや雲の岑 斎藤親盛
19 扇あれはいつも夏かと御影堂 斎藤親盛
20 三春迄着るや岩城のちゝみ布 斎藤親盛
21 一瓢も千金なれや水あそひ 斎藤親盛
秋 一
22 鼠火は尻に立ゝ大路かな 斎藤親盛
秋 二
23 口紅粉のあけをうはふやめはうつき 斎藤親盛
菽
24 是は畑のつくりもの也碁いしまめ 斎藤親盛
粟田口祭
25 祭見やいそしの栄花あはた口 斎藤親盛
26 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉 斎藤親盛
27 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉 斎藤親盛
冬 一
28 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬 斎藤親盛
29 かけはこそ菩提樹となれ木葉経 斎藤親盛
30 菅笠や憂世の民のしもおほひ 斎藤親盛
31 二季まてみきとこたへん帰花 斎藤親盛
32 出雲にや雪垣つくる軒の妻 斎藤親盛
33 降雪やこしのしら山馬のくら 斎藤親盛
34 つく餅や手水のこりて薄氷 斎藤親盛
冬 二
35 追鳥やせこにもれたる草かくれ 斎藤親盛
36 渋柿もしゆくしにけりな色紙子 斎藤親盛
37 ひゝきらす神や手なつちあしなつち 斎藤親盛
38 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら 斎藤親盛
39 今日斗あすはかすみの節季0 斎藤親盛
40 海やあるまくらのしたにたから船 斎藤親盛
二本松住
水野林元 春五十六句 夏二十一句 秋四十一句 冬四十三句
〆二百一句
日野好元 春五十一句 夏五十二句 秋四十五句 冬三十七句
〆百八十二句
小沢衆下 春二十七句 夏三十五句 秋三十二句 冬二十四句
〆百十八句
江口塵言 春三十六句 夏二十四句 秋二十六句 冬二十二句
〆百八句
内藤未及 春二十六句 夏二十九句 秋十三句 冬十二句
〆八十句
中井正成 春十四句 夏二十二句 秋十八句 冬十六句
〆七十句
斎藤如酔 春十五句 夏二十句 秋十八句 冬十三句
〆六十六句
後藤之也 春十七句 夏八句 秋十二句 冬十四句
〆五十一句
下河部□□ 春十四句 夏十一句 秋十句 冬八句
〆四十三句
斎藤親盛 春十三句 夏八句 秋六句 冬十三句 〆四十句
小池又笑 春十一句 夏八句 秋六句 冬十四句 〆三十九句
奥田方格 春五句 夏九句 秋五句 冬七句 〆二十六句
釈 随言 春八句 夏四句 秋五句 冬六句 〆二十三句
白岩人任 春三句 夏二句 秋五句 冬六句 〆十六句
斎藤友我 春四句 夏四句 秋一句 冬五句 〆十句
長岡道高 春五句 秋一句 冬二句 〆八句
座頭城益 春二句 夏三句 〆五句
佐野相興 春一句 夏一句 秋二句 冬一句 〆五句
伴 人似
春三句 秋二句 〆五句
安田未元 春二句 秋三句 〆五句
0山子 春二句 夏一句 冬二句 〆五句
日野好久 夏一句 秋二句 冬一句 〆四句
大崎口友 春三句 秋一句 〆四句
佐藤幸之 春三句 夏一句 〆四句
滝川寸志 春二句 冬一句 〆三句
寺田万之助 秋二句 冬一句 〆三句
安積治水子 春二句 秋一句 〆三句
藤村守幸 夏二句 冬一句 〆三句
青戸未入 春二句 冬一句 〆三句
小松崎破衣 春一句 貝山友志 冬一句
佐藤萍心 春一句 清水直治 冬一句
寺田守昌 春一句 壱田政氏 冬一句
松下是一 春一句 石橋0同 冬一句
土屋有次 春一句 三崎如雲 冬一句
金田古硯 春一句 今村林昌 冬一句
津田正吉 秋一句 横山笑甫 冬一句
山田相知 秋一句 鈴木友言 冬一句
4,松江維舟撰『時勢粧』 寛文十二年
第一
夏 部
蓮
1 はすを御池糸もかしこし花の色 斎藤親盛
秋 部
鹿
2 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛 斎藤親盛
冬 部
霜
3 霜八たび置てや鐘の七つ六つ 斎藤親盛
第二
冬 部
4 老人や子に伏寅に置火燵 斎藤親盛
鷹
5 鷹や又生るを放つぬくめ鳥 斎藤親盛
句数之事
二本松之住
塵言 四十一 水野林元 三十九
日野氏好元 四十 長岡道高 七
中井正成 十一 小沢衆下 十五
丹羽捨拾 一 佐野相興 一
野沢似言 一 毛利以由 一
今村林昌 一 奥田方格 一
河村惣広 一 小池又笑 四
斎藤親盛 四 下河部□□ 三
白岩人任 三 内藤未及 二
土屋有房 二 日野好久 二
伴人似 二 不破一興 四
須藤之也 八 斎藤友我 五
斎藤如酔 十四 釈随言 五
釈永雲 一
時勢粧小鏡
夏部
祓
1 猶おかし水無月祓虫払 斎藤親盛
第四下
寛文五年霜月十日 《注》 □=長点 ◇=点
何 0
1 □出立は足もとよりぞ鷹の鳥 親盛
2 ◇是は夜の間か雪の道筋 友我
3 □遠山も花咲たりと聞付て 々
4 永/\し日もあかぬ野心 盛
5 ◇ひたぶるに猫は妻をし呼廻 々
6 やねも戸びらも春めきにけり 我
7 朧げの月を見晴す庭の景 々
8 酒のむしろにしくは御ざらぬ 盛
9 ◇鼻歌のふし立中も和ぎて 我
10 あるまひ物よ恋の関もり 盛
11 我罪はよもや色には伊豆箱根 我
12 □多くはとらぬひとふたみかん 盛
13 ◇花車にもる膾も栗もいさぎよし 我
14 ◇月になる迄数奇の伴ひ 盛
15 ◇蹴鞠は幾日もあらじ秋の暮 我
16 そぼ/\雨はふるかふらぬか 盛
17 ◇乗物の簾はあけようつとうし 我
18 野がけあそびは遠がけの道 盛
19 世をうしとしらぬ人々たはぶれて 我
20 此方ばかり岩のかくれ家 盛
21 ◇鬼有といふは真か大江山 我
22 分て生野に女ちらめく 盛
23 □若草をやくたいもなき物思 我
24 えんをも結ぶ春の夜の夢 盛
25 ◇佐保姫もしろしめされん文のうち 我
26 ◇いざやとく/\居て朝鷹 盛
27 寒空を忘な樽の底ごゝろ 我
28 北国道はいまおもひたつ 盛
29 我君のあたかの事はいかゞせん 我
30 只ならぬ身となるやお手かけ 盛
31 とはぬ夜は秋もたんぽを肌にそへ 我
32 ◇露涙にぞ寝巻ひぢぬる 盛
33 恋病に月の形を見まくほし 我
34 大宮人はとかくやさがた 盛
35 □けやけきも臥猪の床と云なして 我
36 むさくさ茂る木陰山陰 盛
37 ◇住捨て一両年を古屋敷 我
38 我身ばかりは泣のなみだよ 盛
39 ◇心なき影法師さへ面やせて 我
40 □鴫立沢の水は道ばた 盛
41 秋風にはや汗入て岑の月 我
42 □かけ出にけり野にも山伏 盛
43 ◇狼をとらんとするも穴賢 我
44 狐を見ればどれも顔白 盛
45 朝清め雪かきのくる墓原に 我
46 此春ばかり仏とふらん 盛
47 ◇老が目は霞て三輪の山遠み 我
48 ◇日もあたゝかな有馬の出湯 盛
49 ◇花の陰小篠のさゝの酔機嫌 我
50 ◇鶯袖もひいつひかれつ 盛
51 ◇三線のいとゞ心もうかれ女に 々
52 うそ恥かしの我が口笛 我
53 ◇飛蜂を払へどく・まのあたり 盛
54 みなみの日請しづかなる山 我
55 若の浦吹上浜は扨もく・ 盛
56 ◇波ではないかや菊の花 我
57 ◇紅葉さへうかべる月の舟遊び 盛
58 ◇露を悲しぶ一首の詠歌 我
59 急雨の雨もはらく・霧も立 盛
60 涙こゝろは只しほく・と 我
61 □しばらくは別の顔をまもり合 盛
62 □夜討を思ふ続松の影 我
63 ◇弓も矢も堀川筋を前に向 盛
64 □安山子も作る里の新田 我
65 さし柳苦竹の葉も散交り 盛
66 月までをどる雀色時 我
67 宮めぐりめぐりく・て下向して 盛
68 ◇なふ思ひだす御幸の車 我
69 ◇とつと其昔も今も小塩山 盛
70 けぶりくらべや松陰の茶屋 我
71 莨□にも名残ハ尽ぬ習にて 盛
72 別し方はあちと見かへる 我
73 横雲の空泣又は恨なき 盛
74 つれなき様は郭公かの 我
75 金衣鳥銀薄付しゑりもがな 盛
76 まづ/\祝へ若ゑびす殿 我
77 ◇書初の紙は中にも花ぐ・し 盛
78 ◇掟を触る御入部の春 我
79 ◇上下もさゞめきわたる勝軍 盛
80 あれかは竹の螢乱るゝ 我
81 秋すでに昨日今日迄水心 盛
82 □朝げの風に団扇さへ置 我
83 月見しつ酒あたゝめつ寝つ起つ 盛
84 やもめのくせや長夜はうし 我
85 ◇いつも/\烏がなけば暇乞 盛
86 ◇涙に袖はぬれぬ鷺の如 我
87 ◇冬までも残るは無か形見草 盛
88 氷れるは閼伽も弥陀の一体 我
89 極楽ををしへのお文忝な 盛
90 玉のをばかり逢たや見たや 我
91 ◇恋死も今や/\と心ぼそ 盛
92 ◇おもゆすゝり又すゝりなき 我
93 □みなし子をだいつかゝへつ膝の上 盛
94 □木幡の里に前後白雪 我
95 □馬はをはで焼火のそばに一眠 盛
96 尻たれ帯の下女にもほるゝ 我
97 たすきがけこなたかなたへ口説寄 盛
98 など世の中のからいぞく・ 我
99 □竹に入こがしも花の香に匂ひ 盛
100 ◇事かり初に出しつゝしみ 我
付墨 五十句
此内 長十五
斎藤親盛 点廿四 内長八
斎藤友我 点廿六 内長七
5,宗善庵重安撰『糸屑集』 延宝三年
糸屑集巻三秋部
穂 蓼
1 味はひもから紅の穂蓼哉 奥州/親盛
糸屑集句引
陸奥
岩城/風鈴軒 五 同/如白 一
道高 三 久経 一
笑草 一 嘉□ 二
親盛 一 正利 一
久隆 一 師□ 一
清後 一 林元 二
6,北村季吟撰『続連珠』 延宝四年
続連珠誹諧集巻第十一
春発句上
1 はや乙矢順のこふしや弓始 二本松/親盛
続連珠作者 并 句数
陸奥国/卅九人
風鈴軒 付句二/発句二百四十五 岩城松賀氏/紫塵 六
二本松/林元 一 二本松/親盛 四
同(二本松)日野氏/好元 五 岩城吉田氏/俊貞 四
岩城塩川氏/如白 四 南部盛岡平井氏/順□ 一
岩城浅香氏/英総 七 岩城亀室 三
南部小館氏/長意 四 合津津川住/重房 二
合津津川住/由房 一 仙台/不及 六
岩城長沢氏/寺常 十四 白川/柳雪 二
南部北川氏/秀将 七 二本松小沢氏/衆下 七
合津津川住/宣房 三 白川梯雲軒/霞鵆 十三
南部盛岡氏/勝重 四 二本松/正成 二
岩城次田氏/東竹 二 奥田氏/蜘紫 六
岩城江名口氏/季堅 一 同(岩城)山井氏/重元 一
白川大宮氏/玄長 一 合津津川住/次政 一
二本松/秀伝 二 南部盛岡村井氏/正尹 一
磯江氏/勝盛 一 二本松/塵言 一
南部隣松軒/正焉 三 合津津川三村氏/吉重 一
岩城/塩川氏女 一 白川勾坂氏/一曲 二
南部/政俊 一 二本松小□住/如酔 一
岩城山井氏/水吟 一
〔参 考〕
7,那賀盛之予撰『境海草』 万治三年
夏
1 五月雨は船ながしたる酒屋哉 親盛
大 坂
休甫 二 井蛙 二
悦春 二 清次 二
正風 壱 雅氏 二
伯貞 一 親盛 一
常直 四
以上,親盛の発句と両吟百韻を,現在確認し得たものを整理して掲げたが,その結果,『佐夜中山集』二句,『夜の錦』十一句,『桜川』四十句,『時勢粧』五句,『時勢粧小鏡』一句,『糸屑集』一句,『続連珠』一句,『境海集』一句,合計六十二句となり,これに,『時勢粧』収録の斎藤友我との両吟「何0百韻」一巻が加わる。発句を整理して一覧すると以下に掲げる通りである。全六十二句中,4・6は『佐夜中山集』と重複し,13は『時勢粧』と重複する。また,12は『時勢粧』収録の友我との両吟「何□百韻」の発句である。『続連珠』は「作者 并 句数」の項に「二本松/親盛四」とあるが,発句一句しか確認できなかった。62は『境海集』の句であるが,この集には、京・江戸・大坂・天満・奈良・長崎・讃岐・伊勢・紀州・平野・三宅・八木・布忍・堺住の俳人が収録され
ていて,陸奥・二本松は入っていない。そして「大坂」の条に「親盛 一」とある。これを斎藤親盛と同一人とは断定出来ないが,参考のため掲げた。従って、以上の結果を差引きすると,現在確認しえた親盛の発句は五十七句ということになる。
斎藤親盛の発句一覧
1 花の兄やこれも接木のたいかはり
2 田舎にて花の都や和哥の友
3 万代をかけて祝ふやおめて鯛 (夜の錦)
4 花の兄や是も接木のたいかはり (佐夜中山集)
5 あけぬるや雲のいつこにいかのほり (夜の錦)
6 田舎にて花の都や和歌の友 (佐夜中山集)
7 夏引の手挽にするは麦粉かな (夜の錦)
8 虚空より鉄花をふらす花火哉 (夜の錦)
9 塩くみやふりさけ見れは桶の月 (夜の錦)
10 金柑やけに色にそみ皮にめて (夜の錦)
11 風ふけはをきつしらかに綿帽子 (夜の錦)
12 出立は足もとよりそ鷹の鳥 (時勢粧百韻発句)
13 たかや又生るを放つぬくめ鳥 (時勢粧)
14 お流れや二つ瓶子に三つの春
15 松の戸やたえ/\ならぬ春の礼
16 いはふとて朝に杖つく卯の日哉
17 はま弓やひかりさしそふいはひ月
18 笠鉾やかけ奉るひたち帯
19 札押やみな身の祈祷二月堂
20 をく露や声にちほ/\いもかへる
21 栢の木に巣こもりやする碁石鳥
22 秋もあれと松の海辺菊池の里
23 うとの朱うはふ防風や膾のこ
24 武さし野は本むらさきの菫かな
25 けかれぬや蒜慈悲の高野山
26 わらはへもあしたをまつやとり合せ
27 あかなくにまたき生湯や如来肌
28 いちこもやまいたるつるはいはら垣
29 月の夜はうをのたなゝし鵜舟哉
30 宇治丸のなれ押そおもふ桶のすし
31 山復山みねより出てや雲の岑
32 扇あれはいつも夏かと御影堂
33 三春迄着るや岩城のちゝみ布
34 一瓢も千金なれや水あそひ
35 鼠火は尻に立ゝ大路かな
36 口紅粉のあけをうはふやめはうつき
37 是は畑のつくりもの也碁いしまめ
38 祭見やいそしの栄花あはた口
39 鴫は鴨の羽ねかきまかふ文字哉
40 手折てやまた見ぬ人にこい紅葉
41 炭櫃もや一家ひらけて四方の冬
42 かけはこそ菩提樹となれ木葉経
43 菅笠や憂世の民のしもおほひ
44 二季まてみきとこたへん帰花
45 出雲にや雪垣つくる軒の妻
47 降雪やこしのしら山馬のくら
47 つく餅や手水のこりて薄氷
48 追鳥やせこにもれたる草かくれ
49 渋柿もしゆくしにけりな色紙子
50 ひゝきらす神や手なつちあしなつち
51 笛太鼓おもしろひそよ小夜かくら
52 今日斗あすはかすみの節季0
53 海やあるまくらのしたにたから船
54 はすを御池糸もかしこし花の色
55 よきてけふ萩のあたりを鹿の笛
56 霜八たび置てや鐘の七つ六つ
57 老人や子に伏寅に置火燵
58 鷹や又生るを放つぬくめ鳥
59 猶おかし水無月祓虫払
60 味はひもから紅の穂蓼哉
61 はや乙矢順のこふしや弓始
62 五月雨は船ながしたる酒屋哉 (参考)
三,斎藤親盛と二本松の俳諧
近世初期の二本松の俳諧について、田中正能氏が『二本松市史』第九巻で次の如く整理しておられる。
「 二 奥州二本松の俳諧
二本松丹羽家中の俳諧は、寛文期より元禄期には奥羽地方においては全国的に有名であった内藤風虎、その子内藤露沾の岩城平藩の平地方と等しく多数の俳人をもち、双璧をなすと称せられていた。藩政約二四〇年間で最高の文芸の花を咲かせた時代であった。以後は再びこの時代を超越する時代が現われない程の盛況であり、藩政の実証でもあったのである。
二本松の俳人として最初の人に、江口塵言=江口三郎右衛門正倫と、水野林元=水野九郎右衛門林元の名が現われる。寛文五年(一六六五)四月、松江重頼(維舟)が岩城平藩主内藤風虎に招かれて京都を発し、近江路―木曽路―江戸着、さらに日光―宇都宮―白河―二本松に泊り、江口塵言・水野林元を尋ねたことが紀行中に見られ、当時第一級の俳人をして訪ねさせ得た程の俳人が当二本松藩に存在していたことが判る。重頼は松島一見後仙台・・・岩城平に永らく滞在して、冬になり平を出て江戸へ、東海道を経て師走上旬京都に帰っている。江口・水野の両氏の外に、二本松藩における俳人は、寛文十二年(一六七二)〜延宝二年(一六七四)間に岩城平藩主内藤風虎・その子露沾の命により、松山玖也によって編纂された「桜川」に 見出せる。」
とされ,収録俳人を掲げておられる。親盛の句が入っている撰集に採録された二本松の俳人を,その句数と共に整理すると次の如くである。
寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二〇名)
水野氏/林元 二四 寺田氏/寒松 二
塵言 二〇 伴 氏/人似 二
日野氏/好元 一四 古硯 二
長岡氏/道高 一三 不破氏/一与 二
小沢氏/衆下 一一 小原氏/幸益 二
中井氏/正成 一〇 斎藤氏/親盛 二
小河氏/可著 八 元知 一
斎藤氏/友我 七 釈 氏/智蔵主 一
奥田氏/方格 四 根村氏/吉元 一
古市氏/正信 二 槙 氏/陳旧 一
寛文六年,風虎撰『夜の錦』(二九名)
江口氏/塵言 二六 今村氏/林昌 二
水野氏/林元 二四 佐藤氏/幸之 一
日野氏/好元 二一 正秀 一
長岡氏/道高 一九 白岩氏/人任 一
斎藤氏/親盛 一一 安保氏/一実 一
同 氏/友我 七 豊田氏/政氏 一
小沢氏/衆下 六 釈 氏/知蔵司 一
不破氏/一与 五 古市氏/正信 一
中井氏/正成 五 小池氏/又笑 一
奥田氏/方格 四 秀伝 一
小川氏/可著 四 伴 氏/人似 一
斎藤氏/如酔 三 土屋氏/有房 一
須藤氏/之也 三 下河辺氏/00 一
寺田氏/寒松 三 釈 氏/随言 一
古硯 一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(四五名)
水野林元 二〇一 長岡道高 八 佐藤萍心 一
日野好元 一八二 座頭城益 五 寺田守昌 一
小沢衆下 一一八 佐野相興 五 松下是一 一
江口塵言 一〇八 伴 人似 五 土屋有次 一
内藤未及 八〇 安田未元 五 金田古硯 一
中井正成 七〇 0山子 五 津田正吉 一
斎藤如酔 六六 日野好久 四 山田相知 一
須藤之也 五一 大崎口友 四 貝山友志 一
下河辺□□ 四三 佐藤幸之 四 清水直治 一
斎藤親盛 四〇 藤村守幸 三 豊田政氏 一
小池又笑 三九 青戸未入 三 石橋0同 一
奥田方格 二六 滝川寸志 三 三崎如雲 一
釈 随言 二三 寺田万之助 三 今村林昌 一
白岩人任 一六 安積治水子 三 横山笑甫 一
斎藤友我 一〇 小松崎破衣 一 鈴木友言 一
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二七名)
塵言 四一 釈 随言 五 伴 人似 二
日野氏好元 四〇 斎藤親盛 四 丹羽捨拾 一
水野林元 三九 不破一与 四 佐野相興 一
小沢衆下 一五 小池又笑 四 野沢似言 一
斎藤如酔 一四 下河辺□□ 三 毛利以由 一
中井正成 一一 白岩人任 三 今村林昌 一
須藤之也 八 内藤未及 二 奥田方格 一
長岡道高 七 土屋有房 二 河村惣広 一
斎藤友我 五 日野好久 二 釈 永雲 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(三名)
道高 三 林元 二 親盛 一
延宝四年,季吟撰『続連珠』(八名)
小沢氏/衆下 七 正成 二 親盛 一 塵言 一
日野氏/好元 五 秀伝 二 林元 一 如酔 一
また,各集の国別の俳人の数を整理すると次の如くである(『夜の錦』は除いた)。
寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』(二本松・二〇名)
京之住 一三五 同(勢州)松坂之住 八
摂津大坂之住 五九 備中之住 八
金沢之住 四三 信州飯田之住 七
備前岡山之住 二一 奥州岩城 七
和州郡山之住 二〇 南都之住 五
同(勢州)山田之住 二〇 近州大津之住 五
二本松之住 二〇 美濃岐阜之住 五
武州江戸 一九 加賀大正寺之住 五
尾州名古屋之住 一八 長門萩之住 五
肥後熊本之住 一八 同(和州)国箸尾之住 四
因幡鳥取之住 一六 平野之住 四
和泉境之住 一五 阿波之住 四
羽州山形之住 一三 同(伊予)国松山之住 四
下野宇都宮之住 一一 同(肥前)国平戸之住 四
越前福井之住 一〇 同(和州)国田原本之住 三
伊賀上野之住 九 河内波瀲之住 三
会津之住 九 同(伊予)国小松之住 三
兵庫之住 八 伏見之住 二
勢州津之住 二 常陸水戸 一
参河吉田之住 二 同(近州)柳川之住 一
同(参河)御油之住 二 同(近州)河並之住 一
相模鎌倉之住 二 同(下野)皆川之住 一
同(相模)小田原之住 二 仙台之住 一
伯耆之住 二 若狭之住 一
淡路之住 二 越中高岡之住 一
伊予今治之住 二 越後村上之住 一
土佐之住 二 播磨明石之住 一
豊後臼杵之住 二 同(播磨)完粟之住 一
山崎之住 一 安芸広嶋之住 一
同(和州)国長楽村之住 一 周防岩国之住 一
同(和州)国今井之住 一 出雲之住 一
同(和州)国宇多之住 一 同(伊予)国宇和嶋之住 一
摂津柱本之住 一 豊前仲津之住 一
同(摂津)国勝尾山 一
寛文十二年,風虎撰『桜川』(二本松・四五名)
武蔵国江戸住 一三二 肥前国大村住 二
山城国京住 一〇八 山城国山崎住 一
摂津国大坂住 八五 大和国多武嶺住 一
陸奥国岩城住 七二 大和国下市住 一
陸奥国二本松住 四五 大和国新庄住 一
伊勢国山田住 二八 河内国松原住 一
下野国宇都宮住 二一 摂津国西宮住 一
和泉国堺 二〇 摂津国榎並住 一
尾張国名古屋住 一八 伊勢国津住 一
近江国彦根住 一二 伊勢国桑名住 一
参河国吉田住 一一 伊勢国一之瀬住 一
参河国岡崎住 一〇 伊勢国鳥羽住 一
加賀国金沢住 一〇 参河国藤川住 一
陸奥国仙台住 八 参河国竹広住 一
大和国郡山住 七 参河国牛久保住 一
美濃国大垣住 七 遠江国中村住 一
陸奥国会津住 七 甲斐国 一
因幡国鳥取住 七 相模国鎌倉住 一
摂津国尼ケ崎住 六 相模国小田原住 一
伊賀国上野住 六 武蔵国岩村住 一
尾張国熱田住 六 安房国歩行山住 一
美濃国竹ケ鼻住 六 下総国横曽根住 一
肥前国佐賀住 六 常陸国下妻住 一
備前国岡山住 五 阿波国涓津住 一
肥前国平戸住 五 伊予国今治住 一
肥後国熊本住 五 土佐国大高坂住 一
山城国伏見住 四 筑前国飯塚住 一
下野国壬生住 四 近江国膳所住 一
丹波国柏原住 四 美濃国岐阜住 一
備中国福山住 四 信濃国飯田住 一
長門国萩住 四 信濃国松本住 一
尾張国津嶋住 三 上野国厩橋住 一
参河国新城住 三 下野国結城住 一
伯耆国米子住 三 陸奥国棚倉住 一
伊勢国松坂住 三 陸奥国津軽住 一
伊予国宇和嶋住 三 出羽国山形住 一
肥前国長崎住 三 出羽国秋田住 一
摂津国茨木住 二 出羽国野代住 一
摂津国平野住 二 加賀国大聖寺住 一
伊勢国朝熊岳住 二 丹波国鴨庄住 一
参河国小坂井住 二 伯耆国倉吉住 一
陸奥国白河住 二 播磨国明石住 一
陸奥国三春住 二 安芸国広嶋住 一
出羽国大石田住 二 安芸国宮嶋住 一
越前国福井住 二 紀伊国和歌山住 一
丹波国福知山住 二 紀伊国長嶋山住 一
丹波国神池寺住 二 紀伊国日高住 一
因幡国岩井住 二 紀伊国高野山住 一
出雲国松江住 二 周防国 一
淡路国 二 豊前国小倉住 一
讃岐国高松住 二 肥前国深堀住 一
伊予国松山住 二 日向国県住 一
筑前国博多住 二
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』(二本松・二七名)
京之住 七四 豊前小倉 一〇 葛城之住 二
摂津大坂之住 三四 越前福居之住 九 河内之国 二
肥後熊本 二八 出雲松江 九 摂津柱本之住 二
二本松之住 二七 美濃岐阜 九 桑名之住 二
加賀金沢之住 二三 長門萩之住 六 宮腰之住 二
肥前佐賀 二一 筑前博多 六 讃岐 二
因幡鳥取 一九 坂田郡之住 五 大村之住 二
和泉境之住 一七 下野宇都宮 五 伏見之住 一
備前岡山 一七 会津若松之住 五 今井之住 一
彦根之住 一五 米子之住 五 朝熊之住 一
仙台之住 一五 平戸之住 五 下総結城之住 一
大和郡山之住 一四 信濃飯田之住 四 近江大津之住 一
伊賀上野之住 一四 出羽庄内 四 八幡之住 一
長崎之住 一四 阿波 四 水口之住 一
伊勢山田之住 一三 若狭之住 三 河並之住 一
尾張名古屋 一三 宮嶋之住 三 竹鼻之住 一
陸奥岩城 一三 山崎之住 二 伯耆倉吉 一
美作之住 一 備中 一 安芸広嶋 一 豊後臼杵 一
延宝三年,重安撰『糸屑集』(二本松・三名)
摂津大坂 一三八 同(摂津)平野 二
加賀 一五 同(摂津)池田 二
同(摂津)尼崎 一三 同(摂津)伊勢 二
陸奥 一三 紀伊 二
同(大和)宇陀 一二 淡路 二
同(大和)今井 一一 同(山城)伏見 一
武蔵江戸 一一 同(大和)奈良 一
山城京 一〇 同(大和)道穂 一
同(山城)宇治田原 九 同(大和)下市 一
筑前 九 河内久宝寺 一
同(摂津)伊丹 八 同(河内)柏原 一
尾張 七 和泉 一
同(和泉)堺 六 同(摂津)富松 一
同(陸奥)南部 六 出羽 一
同(摂津)塚口 四 越前 一
大和 三 丹波 一
同(大和)吉野 三 出雲 一
同(大和)多武峯 三 播磨 一
備後 三 安芸 一
土佐 三 日向 一
肥前長崎 三
延宝四年,季吟撰『続連珠』(二本松・八名)
山城国 一一〇 伊予国 一九 肥前国 三
出羽国 六九 伊賀国 一五 豊後国 三
尾張国 五七 大和国 一四 河内国 二
越前国 五六 薩摩国 一四 美作国 二
摂津国 四六 安芸国 一一 筑後国 二
陸奥国 三九 上野国 九 日向国 二
加賀国 三八 参河国 八 飛騨国 一
武蔵国 三三 能登国 八 信濃国 一
丹波国 三三 和泉国 七 丹後国 一
豊前国 三一 越中国 七 因幡国 一
美濃国 三〇 阿波国 七 伯耆国 一
伊勢国 二九 讃岐国 七 石見国 一
肥後国 二八 大隅国 六 備中国 一
紀伊国 二六 遠江国 五 備後国 一
近江国 二四 伊豆国 五 土佐国 一
越後国 二三 若狭国 五 筑前国 一
但馬国 二二 周防国 四
次に,当時の俳諧撰集の収録状況を推測するため,親盛の句が収録されていない,主要な撰集の国別の俳人の数を整理してみると,以下の如くである(発句のみ)。
寛永十年,重頼撰『犬子集』
伊勢山田之住 一〇〇 江戸之住 五
京之住 五一 因幡之住 二
堺之住 一九 大坂之住 一
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
京之住 一二八 紀伊国之住 二
伊勢山田之住 九九 因幡之住 二
堺之住 一九 大坂之住 一
江戸之住 五
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
京之住 七六 郡山之住 二
勢州山田之住 七六 大津之住 二
堺之住 四五 同(勢州)松坂之住 二
大坂之住 一三 越前之住 二
江戸之住 一一 伊賀之住 一
紀州若山之住 八 因幡之住 一
播州姫路之住 八 安芸之住 一
同(勢州)津之住 五 加賀之住 一
膳所之住 三
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
京之住 四九 因幡之住 二
摂州大坂之住 四二 和州南都之住 一
武州江戸之住 二一 勢州津之住 一
泉州堺之住 一二 同(勢州)山田之住 一
土佐之住 五 遠州之住 一
同(丹波)柏原之住 四 播州姫路之住 一
尾州名古屋之住 三 同(播州)龍野之住 一
丹波之住 三 出雲之住 一
同(播州)明石之住 三 加賀之住 一
紀伊之住 三 肥前長崎之住 一
同(和州)郡山之住 二
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
大坂之住 一三五 河内之住 八 讃岐之住 二
堺之住 七九 紀伊 八 筑後之住 二
天満之住 六〇 南都之住 七 薩摩 二
伊勢之住 五六 備中之住 五 和泉之住 一
江戸之住 四二 長崎之住 三 参河之住 一
摂津之住 三五 山城 三 駿河之住 一
播磨 一七 陸奥 三 信濃之住 一
越後 一二 近江之住 二 但馬之住 一
備前 一〇 美濃 二 阿波 一
京之住 八 尾張 二 伊予 一
土佐之住 一 安芸 一 筑前之住 一 日向 一
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
京之住 一一二 唐崎村住 五
伊勢桑名 四四 丹波笹山住 五
摂津 四三 播磨姫路住 四
尾張名古屋住 四二 土佐中村住 四
熱田住 二五 伊賀 三
富田住 一五 備中 三
竹ケ鼻 一五 阿波撫養住 三
美濃横曽根住 一〇 津住 二
備後三原住 一〇 備前 二
和泉 九 紀伊和哥山住 二
薩摩鹿児嶋住 九 飛騨 一
出羽 八 武蔵 一
淡路福良住 七 越前 一
伊予 六
明暦二年,貞室撰『玉海集』
山城国 一五三 但馬国 一一 備中国 二
摂津国 九九 越後国 一〇 阿波国 二
播磨国 四三 薩摩国 一〇 肥前国 二
丹波国 三八 河内国 六 遠江国 一
伊勢国 二六 加賀国 五 駿河国 一
和泉国 二五 美濃国 四 出羽国 一
武蔵国 二三 伊賀国 三 越中国 一
紀伊国 二三 丹後国 三 伯耆国 一
大和国 二一 周防国 三 備後国 一
近江国 二一 参河国 二 讃岐国 一
尾張国 二〇 相模国 二 土佐国 一
越前国 一五 因幡国 二 豊後国 一
備前国 一五
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
山城国 一五五 肥前 三
摂州大坂之住 四一 八幡住 二
泉州堺之住 二六 山崎住 二
播州姫路之住 二二 同(摂州)上牧之住 二
伏見住 一六 伊賀国 二
大和国 一六 同(勢州)山田之住 二
江州膳所之住 一〇 尾張国 二
江戸之住 九 同(江州)草津之住 二
備前国 八 美濃国 二
河内国 七 越後国 二
勢州津之住 六 丹波国 二
加賀国 四 丹後国 二
因幡国 四 紀伊国 二
備中国 三 信濃国 一
伊予 三
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
山城国 二七〇 伊予 一〇 伊賀 二
摂津 一三九 鈴鹿住 九 上野 二
播磨 一〇五 草津住 九 筑前 二
和泉 八九 加賀 九 讃岐 二
河内国 七六 餝磨住 九 下鳥羽住 二
備前 六〇 出羽 八 山科住 二
伏見住 五五 池田住 七 上牧住 二
大和国 五〇 有馬住 五 遠江 一
紀伊 四三 茨木住 五 甲斐 一
尾張 三四 因幡 五 相模 一
武蔵 三一 尼崎住 四 常陸 一
美濃 二一 山崎住 四 越前 一
兵庫住 一九 山田住 四 佐渡 一
曽祢村住 一六 坂本住 四 但馬 一
越後 一六 信濃 四 土佐 一
西宮住 一三 三河 三 宇治住 一
肥後 一三 丹波 三 淀住 一
桑名住 一一 高砂住 三 八幡住 一
近江 一一 明石住 三 花山住 一
平野住 一〇 備中 三
万治二年,梅盛撰『捨子集』
山城 京 一三七 伏見 一四 飛騨 四
大坂 五六 備前 一四 讃岐 三
播州 五二 伊予 一二 因幡 二
江戸 四六 加賀 一〇 伊豆 一
伊勢 二九 陸奥 八 信濃 一
大和 二五 紀伊 八 下野 一
摂津 二三 河内 八 丹波 一
肥後 二二 嵯峨 七 但馬 一
近江 二一 三河 七 石見 一
和泉 一六 備後 六 安芸 一
尾張 一六 遠江 五 長州 一
美濃 一六 駿河 五 阿波 一
肥前 一五 伊賀 五
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
山城 一八〇 武蔵 一八 肥前 三 飛騨 一
摂津 一五三 丹波 一七 信濃 二 能登 一
播磨 四九 肥後 一三 陸奥 二 伯耆 一
河内 三三 出羽 八 加賀 二 石見 一
尾張 二六 安芸 七 越後 二 備前 一
伊勢 二四 伊賀 六 丹後 二 備中 一
越前 二四 三河 六 伊予 二 備後 一
紀伊 二三 讃岐 六 豊前 二 周防 一
近江 二一 和泉 五 駿河 一 土佐 一
大和 二〇 薩摩 五 伊豆 一 筑前 一
但馬 二〇 阿波 四 常陸 一 日向 一
美濃 一九 因幡 三
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1〜巻8)
京之住 六八 備前岡山 四 南都之住 一
大坂之住 五四 肥前佐賀 四 河内松原之住 一
境之住 四六 美濃竹ケ鼻 三 有馬之住 一
山田之住 二二 伏見之住 二 尾張名古屋 一
江戸之住 二〇 近江 二 陸奥 一
岸和田 一五 越前 二 丹波柏原之住 一
肥後熊本 七 播磨 二 出雲松江 一
平野之住 六 高砂之住 二 片上之住 一
伊勢松坂之住 五 紀伊 二 備中 一
兵庫 四 豊後臼杵 二 長門 一
加賀 四 山崎之住 一 長崎之住 一
因幡酉酉 四
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
洛陽 九九 近江 一〇 伊予 四 駿河 一
摂津 六六 肥後 一〇 遠江 三 伊豆 一
伊勢 三二 備前 九 常陸 三 佐渡 一
播磨 三二 美濃 七 三河 二 因幡 一
洛外 二一 河内 六 陸奥 二 土佐 一
和泉 一四 紀伊 六 肥前 二 讃岐 一
大和 一三 加賀 五 備後 二
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
山城洛陽住 一五二 肥前 一六 飛騨 三
摂津 八三 美濃 一五 美作 三
播磨 八〇 陸奥 一五 伊賀 二
大和 五三 山城伏見住 一四 甲斐 二
武蔵 五一 尾張 一三 丹波 二
近江 三一 備前 一三 但馬 二
肥後 二九 伊予 一一 伊豆 二
出雲 二八 因幡 九 安芸 二
山城洛外住 二七 河内 六 讃岐 二
三河 二四 駿河 六 若狭 二
紀伊 二三 出羽 五 相模 一
高野山住 二二 遠江 四 常陸 一
加賀 二〇 長門 四 下野 一
信濃 一八 佐渡 三 越前 一
和泉 一七 備後 三 伯耆 一
伊勢 一六
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
武蔵 一〇九 紀伊 四 伊予 二 丹波 一
尾張 九五 土佐 四 備中 二 播磨 一
山城 四六 近江 三 肥後 二 因幡 一
大和 一一 阿波 三 和泉 一 讃岐 一
摂津 一一 肥前 三 三河 一 筑前 一
美濃 一〇 下野 二 相模 一 豊前 一
伊勢 一〇 下総 二 安房 一 豊後 一
陸奥 六 常陸 二 飛騨 一 日向 一
甲斐 五 出羽 二 若狭 一 対馬 一
信濃 五
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
摂州 八五 丹波 二二 河州 六 肥前 二
山城・京 七四 羽州 二〇 若州 四 薩州 二
濃州 四二 但州 一九 泉州 四 常陸 一
江州 四一 播州 一九 備前 四 駿河 一
勢州 二六 武州 一七 奥州 三 能登 一
尾州 二五 加州 一三 相模 三 飛騨 一
越前 二四 豊前 一〇 伊予 三 丹後 一
肥後 二四 越後 七 筑後 三 作州 一
和州 二二 伊賀 七 下野 二 備中 一
紀州 二二 三河 六 筑前 二 防州 一
寛文七年,湖春撰『続山井』
山城国 一八九 陸奥国 二五 越後国 八 備中国 二
摂津国 一一四 大和国 二三 和泉国 七 備後国 二
出羽国 七二 豊前国 二三 筑前国 七 豊後国 二
丹波国 六二 美濃国 二二 安芸国 五 志摩国 一
越前国 四七 肥後国 一九 因幡国 四 相模国 一
但馬国 四四 播磨国 一八 備前国 四 常陸国 一
伊賀国 三六 伊勢国 一三 薩摩国 四 伯嗜国 一
三河国 三五 河内国 一一 肥前国 三 出雲国 一
近江国 二九 紀伊国 一一 飛騨国 二 阿波国 一
加賀国 二六 伊予国 一一 若狭国 二 讃岐国 一
尾張国 二六 遠江国 一〇 越中国 二 土佐国 一
武蔵国 二五 信濃国 一〇 石見国 二 日向国 一
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
伊勢山田 一一一 田丸池辺 五 下総 二
武州江戸 九六 相哥射和 常州 二
松坂 七八 同(伊勢) 信州 二
山城京 四二 内宮 四 能登 二
津 三一 四日市 四 越後 二
加賀 二二 尾州 四 伊賀 二
筑前 二〇 備前 四 山崎 二
下野 一七 川崎 三 備後 二
奥州 一二 三州 三 安芸 二
近江 一一 遠州 三 肥前 二
丹生 一〇 駿河 三 薩摩 二
摂津 九 越前 三 雲州 二
紀州 九 河内 三 丹波 二
因州 九 讃州 三 上総 一
豊前 八 伊予 三 甲州 一
鳥羽 七 周防 三 飛騨 一
白子 七 豊後 三 若狭 一
出羽 七 朝熊岳 二 播磨 一
備中 七 一之瀬 二 長門 一
美濃 六 豆州 二 伯州 一
泉州 六 相州 二
寛文八年,梅盛編『細少石』
山城住 一一三 美濃 一三 信濃 七 阿波 二
播磨 八六 出雲 一二 但馬 七 伊豆 一
摂津 八一 洛外住 一一 肥前 六 相模 一
三河 三八 和泉 一一 出羽 五 下野 一
武蔵 三八 因幡 一一 丹波 五 常陸 一
近江 三七 伊予 一一 伯耆 五 越後 一
加賀 三〇 陸奥 一〇 河内 四 佐州 一
大和 二六 美作 一〇 筑前 四 安芸 一
肥後 二二 伏見住 九 備後 三 長門 一
備前 二〇 伊賀 九 遠江 二 淡路 一
紀伊 一七 甲斐 九 駿河 二 薩摩 一
尾張 一六 伊勢 八 周防 二
寛文九年,未琢撰『一本草』
武蔵国 二五一 摂津国 八 大和国 二 相模国 二
加賀国 二七 甲斐国 八 美濃国 二 近江国 一
山城国 二三 遠江国 七 信濃国 二 上野国 一
伊勢国 一七 丹後国 六 越前国 二 越中国 一
陸奥国 一六 下総国 六 紀伊国 二 越後国 一
下野国 一三 三河国 五 讃岐国 二 播磨国 一
伊豆国 一三 常陸国 五 豊後国 二 肥前国 一
出羽国 九 駿河国 三
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
伊予国 一八一 沖之嶋住 一
松山住 八 近家浦住 一
大洲住 五 摂津国 一〇三
替地村 一 大坂住 八〇
内ノ子村住 一 天満住 二
吉田住 一〇 古妻住 一
宇和島住 一四九 今津村住 二
八幡浜浦住 一 尼崎住 三
雨井浦住 一 山崎住 二
下灘浦住 二 平野住 一
三机浦住 一 池田住 六
日振嶋住 一 有馬湯之山住 六
山材村住 一 武蔵国 九三
江戸住 九三 阿波国 二五
山城国 六一 渭津住 二四
京住 五一 才田村住 一
伏見住 二 安芸国 二三
宇治住 八 広島住 一四
和泉国 四七 瀬戸田住 五
境住 四四 倉橋住 四
万代村住 二 播磨国 一七
高師住 一 姫路住 一一
尾張国 四七 粟賀住 三
名護屋住 三五 高砂住 一
熱田住 一二 荒井住 二
近江国 四五 紀伊国 一五
大津住 一三 和歌山住 七
草津住 一 吹上住 一
長浜住 一 広瀬住 一
坂田郡箕浦 熊野長嶋住 五
庄内住 二 熊野那智住 一
彦根住 二八 淡路国 一三
豊後国 二九 福良住 一〇
府内住 二五 府中住 二
佐伯住 四 湊浦住 一
陸奥国 一二 新賀村住 六
岩城住 七 小田村住 三
二本松住 三 讃岐国 八
仙台住 二 金毘羅住 五
豊前国 一二 子松住 一
中津住 一二 観音寺村住 二
伊勢国 一〇 大和国 七
津住 一 奈良住 二
鈴鹿郡関住 一 高田住 一
山田住 七 今井住 一
長嶋住 一 長谷住 一
越前国 一〇 池田村住 一
福井住 一〇 多武峰住 一
土佐国 一〇 備前国 七
高知住 一 岡山住 七
中村住 一 周防国 七
宿毛村住 七 岩国住 七
下田住 一 美濃国 四
三河国 九 岐阜住 二
寺部住 八 竹ケ鼻住 二
舞木住 一 丹波国 四
備中国 九 氷上郡柏原住 二
山家住 二 秋田野代住 二
河内国 三 加賀国 二
壺井村住 二 金沢住 二
大ケ塚住 一 遠江国 一
但馬国 三 気賀住 一
竹田住 二 安房国 一
出田住 一 歩行山住 一
備後国 三 筑前国 一
三吉住 一 福岡住 一
尾之道住 二 肥前国 一
筑後国 三 平戸住 一
久留米住 三 肥後国 一
常陸国 二 熊本住 一
水戸住 二 薩摩国 一
出羽国 二
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
堺 一五〇 尼崎 四 伊豆 一
大坂 四九 姫路 四 鎌倉 一
京 二二 参河 三 常陸 一
平野 一三 紀伊 三 出羽 一
和泉 一二 天満 二 会津 一
江戸 一一 伊勢 二 住吉 一
大和 一〇 尾張 二 讃岐 一
河内 一〇 広嶋 二 備前 一
長崎 七 豊前 二 備中 一
陸奥 六 宇治 一 筑前 一
伏見 五 榎並 一 肥前 一
薩摩 五 天王寺 一 肥後 一
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
堺 一一七 河内 九 播磨 二 丹波 一
大坂 六二 武蔵 九 備前 二 備中 一
堺ノ外 二〇 肥前 九 尾張 一 安芸 一
陸奥 二〇 薩摩 四 三河 一 阿波 一
大坂ノ外 一八 大和 三 駿河 一 伊予 一
山城 一七 紀伊 三 伊豆 一 豊前 一
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
山城国 一七〇 和泉国 六 若狭国 三 飛騨国 一
摂津国 四五 伊賀国 六 丹後国 三 信濃国 一
安芸国 三七 丹波国 六 備後国 三 越後国 一
武蔵国 二二 備前国 六 長門国 三 但馬国 一
加賀国 二〇 紀伊国 六 河内国 二 石見国 一
近江国 一五 伊勢国 五 遠江国 二 美作国 一
尾張国 一四 肥前国 五 上野国 二 周防国 一
大和国 一三 播磨国 四 伯耆国 二 讃岐国 一
陸奥国 一三 阿波国 四 備中国 二 筑前国 一
伊予国 一三 伊豆国 三 筑後国 二 豊前国 一
三河国 一〇 美濃国 三 日向国 二 豊後国 一
越前国 八 出羽国 三 下総国 一 薩摩国 一
肥後国 八
延宝二年,維舟撰『大井川集』
京之住 七一 仙台 二
尼崎 二六 越後柏崎 二
同(近江)彦根 一六 備前岡山 二
伊丹之住 一四 出雲松江 二
加賀金沢 一四 石見吉長 二
大坂之住 一二 紀伊高野 二
肥後熊本 一一 淡路 二
江戸 一〇 伊予宇和嶋 二
二本松 九 筑前博多 二
伊勢山田之住 八 大村之住 二
尾張名古屋 七 同(大和)新庄 一
若狭小浜 七 朝熊之住 一
長門萩 六 美濃岐阜 一
肥前平戸 五 奥州白川 一
佐賀之住 四 会津津川 一
大和郡山 三 南部守岡 一
境之住 三 越中高岡 一
土佐 三 播磨明石 一
同(大和)桜井 二 同(播磨)龍野 一
同(大和)多武峯 二 周防山口 一
今津之住 二 豊後臼杵 一
近江守山 二 長崎之住 一
岩城 二 南郷之住 一
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
京之住 六五 肥後熊本 六 塚口 一
伊丹 二六 名古屋 五 美濃岐阜 一
加賀金沢 一七 土佐 五 南部守岡 一
尼崎 一六 遠江 四 越中高岡 一
長門萩 一五 平戸 四 出雲松江 一
伊勢山田 一二 播磨明石 三 備前岡山 一
江戸 一一 周防山口 三 備後三原 一
若狭小浜 一一 岩城 二 安芸広嶋 一
郡山 九 能登七尾 二 紀伊 一
近江彦根 九 伊予宇和嶋 二 淡路 一
境 八 伏見 一 讃岐 一
二本松 八 法隆寺 一 筑前博多 一
阿波 六 池田 一 豊後臼杵 一
肥前佐賀 六
以上,貞門俳諧の初期から,斎藤親盛の没した延宝初年までの俳諧撰集の主なものを採り上げて,国別の入集俳人の数を掲げたが,これらを整理すると次の如くである。
寛永十年,重頼撰『犬子集』
伊勢・京都・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
寛永十年,親重撰『誹諧発句帳』
京都・伊勢・堺が中心で,陸奥は収録されていない。
正保二年? 重頼撰『毛吹草』
京都・伊勢・堺・大坂・江戸が多く,陸奥は収録されていない。
正保四年,重頼撰『毛吹草追加』
京都・大坂・江戸・堺の順に多く、陸奥は収録されていない。
明暦二年,蔭山休安撰『夢見草』
大坂・堺・天満・伊勢・江戸・摂津の順に多く,陸奥は3名で,会津2名,仙台1名,二本松は収録されていない。
明暦二年,令徳撰『崑山土塵集』
京都・伊勢・摂津・名古屋・熱田の順に多く,陸奥は未収録。
明暦二年,貞室撰『玉海集』
山城・摂津・播磨・丹波・伊勢・和泉・武蔵・紀伊・大和・近江の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦二年,梅盛撰『口真似草』
山城・大坂・堺・姫路・伏見・大和・膳所・江戸の順に多く,陸奥は収録されていない。
明暦四年,梅盛撰『鸚鵡集』
山城・摂津・播磨・和泉・河内・備前・伏見・大和・紀伊・尾張・武蔵の順に多く,陸奥は収録されていない。
万治二年,梅盛撰『捨子集』
山城・大坂・播州・江戸・伊勢・大和・摂津・肥後・近江の順に多く,陸奥は8名で,会津3名,山形・米沢各2名,白川1名。
万治三年,季吟撰『新続犬筑波集』
山城・摂津・播磨・河内・尾張・伊勢・越前・紀伊・近江・大和・但馬・美濃・武蔵の順に多く,陸奥は2名で,二本松の水野林元と寺田寒松である。
万治三年,重頼撰『懐子』(巻1〜巻8)
京・大坂・境・山田・江戸の順に多く,陸奥は岩城の風虎が1名。
寛文三年,梅盛撰『木玉集』
洛陽・摂津・伊勢・播磨・洛外・和泉・和泉・大和の順に多く,陸奥は,会津が2名。
寛文四年,重頼撰『佐夜中山集』
京・大坂・金沢・岡山・大和郡山・伊勢山田・二本松・江戸の順で,二本松20名、会津9名、岩城7名。●親盛2句入集。
寛文四年,梅盛撰『落穂集』
洛陽・摂津・播磨・大和・武蔵・近江・肥後・出雲・洛外・三河・紀伊の順に多く,陸奥は15名で,二本松では斎藤友我入集。
寛文六年,椋梨一雪撰『俳諧洗濯物』
武蔵・尾張・山城・大和・摂津・美濃・伊勢・陸奥の順に多く,陸奥は6名で,風鈴軒以下5名が岩城,白河が1名である。
寛文六年,風虎撰『夜の錦』
『詞林金玉集』全十五巻に収録する『夜錦』の句数は,一〇五一句。二本松では29名が収録されている。親盛は11句入集。
寛文七年,貞室撰『玉海集追加』
摂州・山城・濃州・江州・勢州・尾州・越前・肥後・和州・紀州・丹波の順に多く,奥州は3名でいずれも会津俳人。
寛文七年,湖春撰『続山井』
山城・摂津・出羽・丹波・越前・但馬・伊賀・三河・近江・加賀・尾張・武蔵・陸奥・大和・豊前・美濃の順に多く,陸奥は25名で,二本松は11名。
寛文八年,加友撰『伊勢踊』
伊勢山田・江戸・松坂・京・津・加賀・筑前の順に多く,奥州は12名であるが,岩城が多く,二本松は入っていない。
寛文八年,梅盛編『細少石』
山城・播磨・摂津・三河・武蔵・近江・加賀・大和・肥後・備前の順に多く,陸奥は10名であるが,岩城・仙台が多く,二本松は収録されていない。
寛文九年,未琢撰『一本草』
武蔵・加賀・山城・伊勢・陸奥・下野・伊豆の順に多く,陸奥では,岩城・会津が多く,二本松は収録されていない。
寛文十二年,維舟撰『時勢粧』
京・大坂・熊本・二本松・金沢・佐賀の順に多く,二本松は27名収録。因みに,岩城は13名,会津は5名である。●親盛6句(小鏡を含む)入集。斎藤友我との「何0百韻」1巻収録。
寛文十二年,桑折宗臣撰『大海集』
伊予・摂津・武蔵・山城・和泉・尾張・近江・豊後・阿波・安芸の順に多く,陸奥は12名で,岩城7名,仙台2名,二本松は,正成・塵言・好元の3名である。
寛文十二年,阿知子顕成撰『続境海草』
堺・大坂・京・平野・和泉・江戸・大和・河内の順に多く,陸奥は6名で,二本松では,林元・好元・道高の3名が入っている。
寛文十二年,阿知子顕成撰『手繰舟』
堺・大坂・堺ノ外・陸奥・大坂ノ外・山城・河内・武蔵・肥前の順に多く,陸奥は20名で,岩城11名,二本松6名,津軽2名,白川1名となっている。
寛文十二年,風虎撰『桜川』
江戸・京・大坂・岩城・二本松・伊勢山田・宇都宮・堺の順に多く,岩城72名,二本松45名となっている。●親盛40句入集。
延宝二年,荻野安静撰『如意宝珠』
山城・摂津・安芸・武蔵・加賀の順に多く,陸奥は13名で,岩城・白川・ツガル・会津・仙台の俳人で,二本松は入っていない。
延宝二年,維舟撰『大井川集』
京・尼崎・彦根・伊丹・金沢・大坂・熊本・江戸・二本松の順に多く,二本松は9名,岩城・仙台各2名,白川・会津各1名。
延宝三年,重安撰『糸屑集』
大坂・加賀・尼崎・陸奥・宇陀・今井・江戸・京の順に多く,陸奥は13名。二本松は,道高・親盛・林元の3名。●親盛1句入集。
延宝四年,維舟撰『武蔵野集』
京・伊丹・金沢・尼崎・萩・伊勢山田・江戸・小浜の順に多く,二本松は8名,岩城1名。
延宝四年,季吟撰『続連珠』
山城・出羽・尾張・越前・摂津・陸奥・加賀・武蔵の順に多く、陸奥は39名で,岩城12名、二本松8名,会津5名、白川4名,盛岡3名等となっている。●親盛1句入集。
以上,斎藤親盛と二本松の俳諧との関連を明らかにするため,貞門俳諧の主要撰集における,親盛及び二本松俳人の発句の入集関係を掲出した。これらの集計結果から,当時の日本の俳壇の状況が,ほぼ見えてきて,二本松の俳諧や親盛の俳諧活動に関しても,様々な推測が可能と思われる。ただ,ここでは,具体的な推測はしばらく差し控え,二本松の俳諧と殊に関係が深かったと思われる,松江重頼・維舟との関係を整理する事にしたい。
四,斎藤親盛と松江重頼
貞門俳諧の指導的立場の一人であった松江重頼は,寛文五年七月,二本松を訪れている。この時,親盛は六十三歳,江戸から二本松へ移住して五年目であった。おそらく,この機会に親盛は重頼に俳諧の指導を受けたものと推測される。
松江重頼の伝記については,中村俊定氏の労作「松江重頼年譜」がある。関連する部分を紹介すると以下の如くである。
「慶長 七(壬寅) 一歳
○出生(維舟真蹟「延宝六年八月上旬参宮奉納連歌」の奥書より逆算)。
寛永十六(己卯) 三十八歳
○末吉道節、松江重頼江戸に下る(『洒竹俳諧年表』による。)
正保 三(丙戌) 四十五歳
○武蔵野ゝ末広いはふ年始哉(『歳旦発句集』(『毛吹草追加』には「武州江戸にて」と詞書す。)
慶安 三(庚寅) 四十九歳
○江戸に滞在せしか。
寛文 二(壬寅) 六十一歳
○「寛文の初めより、洛陽銅駝坊の南御所八幡宮の東に形斗なる居をしめ」とあり、点者生活をしたるか。(『時勢粧』序)
○正月上旬、橋本氏富長「何刀百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(『時勢粧』)
○三月十五日、橋本氏富長「何枕百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
○三月廿日、林氏宗甫「猫何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(同)
○卯月十日、土田氏重信「何簾百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五(同)
寛文 三(癸卯) 六十二歳
○五月廿日、冷泉氏友知「何狐百韻(諷之詞)」に点をなす。スミ五十/長 十五
六月十日、中井氏宗隆「何舞百韻」に点をなす。付墨五十/長 十五
十月十日、玖也・重安・西翁・春倫の四吟「何魚百韻」に点をなす。付墨五十 内長十五、廿五玖也 点十三内長四、廿五重安 点十一内長三、廿五西翁点十五内長五、廿五春倫点
十一内長三(以上『時勢粧』)
寛文 四(甲辰) 六十三歳
○三月十日、鱸氏催笑「男何百韻」に点をなす。付墨五十/長十五(『時勢粧』)
寛文 五(乙巳) 六十四歳
○維舟と号を改む。
○寛文五年卯月三日東行粟田山にて
暇乞余花をもかへり都哉 松江維舟
右の他二句あり。『時勢粧』巻三の句及び詞書によれば、醒ケ井の清水、木曽路、寝覚、諏訪、浅間、筑摩川、碓水、軽イ沢、熊谷、武蔵江戸に出、高井立志、河合水之等の興行あり。木母寺、日光参拝、宇都宮常用由可亭を訪ね、白河関、二本松江口塵言・水野林元亭・中井正成亭、斎藤友我亭、末松山、松島、仙台瀬奈田不及亭、高館相馬領岩城、中村之城下に入り、再び江戸に戻り箱根を経て師走上旬京に帰る。
五月廿日 江口塵言「何鰹百韻」に点をなす。(付墨五十/長 十五)
七月五日 水野氏林元「何石百韻」に加点。(墨五十/長十五)
七月五日 江口氏塵言「何茶百韻」に加点。(墨五十/内長十五)
七月十七日 「矢何百韻」維舟(21)林元(20)塵言(20)道高(20)友我(19)五吟あり。
発句 風の手や枕をはつすけさの秋 維舟
七月十八日 「膝何百韻」維舟(25)塵言(25)道高(25)林元(20)四吟あり。
発句 一節に千々のそは切や花鰹 維舟
十月上旬 「何糸百韻」維舟(12)長好(12)重方(12)三吟あり。
発句 亭もめてむ北面たつかた時雨 維舟
霜月十日 斎藤氏親盛・斎藤氏友我両吟「何□百韻」に点をなす。(親盛点廿四内長八/友我点廿六内長七)
師走上旬京に入日、着ならし衣雪のふりかくすを、
降雪の見のしろ衣や恥かくし
(以上『時勢粧』による)
寛文十二(壬子) 七十一歳
○三月上旬、『時勢粧』附「時勢粧小鏡」の奥書をなす。
延宝 八(庚申) 七十九歳
○『誹諧大系図』六月廿九日没?京都東山大谷に葬る、と記す。
○「延宝八年六月廿九日没東山大谷ニ葬る」とあり(『花見車』) ○「維舟 俗名大文字屋治右衛門 松江重頼ト号 初貞徳門后里邑門人也 延宝八年六月廿九日 七十四才 宗因・鬼貫も此門学 俳諧毛吹草之作者也」 (『はいかい袋』) 」
また,中村氏は寛文初年頃の重頼・維舟の活動状況について,次の如く記しておられる。
「寛文元年(一六六一)耳順の年を迎えて京都銅駝坊の南御所八幡宮の東に草庵を結んで専ら点者生活に入った。寛文五年(一六六五)六十四歳の正月松江に因んで維舟と改号。卯月の初、岩城侯内藤風虎の招きによったものか近江路から木曽を経て諏訪・浅間・碓氷を越えて江戸へ出て、高井立志らと俳諧興行、さらに日光・宇都宮・白河の関をすぎて二本松の俳人江口塵言・水野林元らを訪ね、松島一見、仙台から岩城へ入って暫く滞在、冬再び江戸入り、師走初め京へ帰った。
こえて寛文八年には六十八歳の老齢を以て筑紫紀行を企てている。卯月一日京を出発、十日九州小倉着、佐賀・長崎・八代・久留米・宰府などをめぐり、初冬の頃豊前に立ちかえり、長門・安芸・備後・備中・備前と中国筋の諸俳士と風交をかさね、極月二十二日大阪着の便船で帰京。
この東西両度の大旅行は、多くの地方知名の士に彼の庶幾する新風を鼓吹することが出来た。これらの収穫は、寛文十一年の彦根紀行によって得た諸家の発句と共に『時勢粧』に収められている。」
右の中村俊定氏の年譜・論考からも明らかな如く,寛文五年に,重頼が二本松を訪れた経緯は,寛文十二年三月上旬刊行の『時勢粧』巻三に収録された,発句四十六句とその詞書によって推測する事が出来る。全文を掲出し,若干の注を付すと以下の通りである。
「 寛文五年卯月三日東行粟田山にて 〔注1〕
松 江 維 舟
1 暇乞余花をもかへり都哉
2 手向山や駒のふり髪夏祓 〔注2〕
清水の辺
3 寝ぬ目さへ醒井の水は夏もなし 〔注3〕
4 短夜や明て木曽路は長あくび
5 山は新樹是や寝覚の床柱 〔注4〕
6 諏訪の海や夏も氷の下心
浅間にて
7 穴嬉し里問兼ぬ卯木墻
8 筑摩川夏ゆくや波の雪こかし
9 夏衣碓氷をよしや軽イ沢